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十三日の日曜日感想そのほか

上野散歩 | 060918

コミケ・ブルーシート・クリルタイ・そのほかで思ったこと・考えたこと・喋ったこと・見たこと聞いたこと、などを、雑多にまとめてみる試み。いつどの状況で、というような詳しいところまで思い出そうとすると頭痛がしてきそうなので全部ひとまとめに。

  • こないだから繰り返し「おジャ魔女どれみドッカ〜ン! 第 40 話 どれみと魔女をやめた魔女」を見ている関係で、数年続いた人気女児向けアニメシリーズの主人公の好物が「ステーキ」だったというのがどうにも解せなくて仕方がない。なぜステーキなのか…ハンバーグですらなく…箸でもスプーンでもなく、食うために切り裂くナイフと突き刺すフォークが必要な…。おジャ魔女舐めたらいかんのは、たとえばこういったポイントについてのバランス感覚であったろう。二十一世紀はかつて我々が夢見たのと違い、もっとなにかソウルフルな世界であったろうか。
  • A さん萌え関連
    • 非オタの安全な領域に想定される「デフォルメされたキモオタっぽさ」を地で行くナチュラルな奇態、独特の喋り。
    • A 氏は(ごく狭いはてな村界隈において)いはゆる「愛され」キャラだが、より正確には「ユニークな小動物として遠巻きに愛「玩」されている」イメージ。ある種の安全さ。そこに留まると消費されるのも早かろうから(当人の本意かどうかは無関係。本人の預かり知る領域でないことについて望むも望まぬもない)、ライトユーザ向けには適当なタイミングでテコ入れが必要と客観的にはいえるだろう。ヘヴィユーザはどのみち制御できないので気にかけるだけ無駄(というかその筋合いもない)。
      • あと用語「愛され」が取り扱い注意なのは、それが「空気圧がやたら高いわりになんの具体性も伴わない」表現であるため。(前提も過程もないという点で)典型的な飛び道具。濫用=空洞化。
    • 不随意に発動するスタンド能力のようなもの。
    • この資質は、おそらく氏自身になんのメリットももたらしていない(氏にメリットを誘導できるような手腕があるようなら、氏はとっくに自分のスタンド能力を自在にしているはずだ)。その点まったくいい迷惑であろう。
    • たぶんはてな村界隈に京極堂シリーズをあてはめるとすれば関口巽に最も近い立ち位置に居るのは彼だが、しかし彼を関口とした場合適切な京極堂なり榎木津は存在していないように見える。あと、おれの場合インターネットで関口キャラといえばこのひとをおいてほかにないと思っているひとがほかに居るので、やっぱりこの例は適切でないなと思った。
  • L さん萌え関連
    • はてな村界隈における、当代一流の誘い受けブロガーである。おれのようにクネクネに疎い人間からは氏のような存在の効能は見えづらいのだが、しばらく観測しているうちに徐々にわかってきた気がするが、勘違いかもしれない。
    • 正確には、氏は誘い受けではなくメタ誘い受けなのだが(活動における誘い受け属性を自認しているため)、こと誘い受けにおいては、メタであることはベタ誘い受けの上位互換でしかない(誘い受けは、自覚無自覚に関わらずやはり誘い受けである)。これが一般的に振舞われる属性、たとえば「天然」とかだと、メタがつくとそれはもう天然でないことになる。誘い受けの特殊性のひとつだろう。
    • 誘い受けは、常に一定の存在感を示しつつ希薄。存在感を示したいときにだけカロリー使って、それ以外の時間帯には植物化していればよいのでラク。といっても能動的に存在感を示す時間帯以外のすべてを「誘い受けらしさ」の表明に使わなければならないということでもあるので、やはりもとから誘い受け体質のひとでないと厳しいだろう。
    • 氏の場合、その誘い受けとしてのメタベタの配合が見事だ。ここがメタ誘い受けのベタ誘い受けに対する優位で、メタ誘い受けは公然と三人称視点でモニタしつつ振る舞いを調整できる立場にあるため、状況変化に対するアレンジの幅が広いし、どのタイミングからでもアドリブを割り込ませることができ、また人間関係上に予測できるハマリを事前に回避できる。これにより極めて失点の少ない振る舞いを可能としている(失点自体を萌えに昇華している A 氏のありようと対比させると、L 氏の複雑さがわかりやすい)。
    • また興味深いのは、氏が強烈な誘い受けブロガーであり、かつ男であるという点。その特異な存在感自体によって、氏は(結果的に)界隈の女子の振る舞いを剪定しているように見える。周辺に交錯する視線の曖昧化というか。一切交通整理などしていないけどとりあえず皆ゆっくり走るというか。それがいいことか悪いことかはわからないが、はてな村界隈に「彼より誘い受けが上手い女子がなかなか現われない」というのは、なんともおもしろい膠着だ。このへんは男側からの見え方なので、いずれ女性識者の見解も聞いてみたいところ。
  • モラルや美意識に基づいたイベントデザインは、いずれ円滑な運用に支障をきたすんだけど、なるべくならその範囲で運用できたほうが低コストに分散処理できていいんだよな問題
    • コミケとブルーシート部を見比べて、どちらについても感じた。まあこのての筋合いはどんな規模の集まりにおいても見出すことができる。
    • 伝統的なオタイベントだとだいたいそうで、コミケについても同様という話だが「アマチュアイベントは全員が参加者で…」というのがある。この場合の「参加者」の対義語は「お客さん」となる。違いは、前者がその場の維持と発展に寄与する意思を前提としていて、後者にはそれがなく自分都合の欲望消費を優先する、というようなかんじ。こう書くと「お客さん」というのが相当な悪者のようだが、もともとこの「全員が参加者」的な考え方は、個々人にそう大した努力を要求するものでもないので、これを支持するひとからの「お客さん」への視線に乗っている相対的な「悪者」感も軽微と考えてよい。
    • で、これはまあアマチュアイベントを低コストに運営していくぶんに優れて正しい考え方のひとつだと思うんだけど(ある程度のバランスで一定の層に維持されてあるべき最低限の統制感というか)、現在のコミケで全員に参加者意識を期待するのは現実的とは言いがたい。スタッフ参加側は、まずイベントに関与する時間も長いし相応に教育・自覚の機会があるだろうからいいとして、サークル参加側もまだなんのかんのと事前や当日に運営側と遣り取りする機会があるし(担当者の顔が見えるというのは重要だ)、あと定点に留まり続ける参加形態であるためそこを維持していこうとする意識も多少は喚起できるわけだが、一般参加者側はな。
    • 一般参加者側は、もとから運営側との接点が極めて少ないため(ほとんどの場合「なにかを制限されるとき」にしか、イベントスタッフとの接点がない)、自分もまたイベントの一構成要素であると自覚する機会が少ない。それにくわえて(これはコミケに限らずだが)大規模即売会においては、一般参加者は「イベントの一構成要素としての自分」よりは「即売会における一消費単位としての自分」のほうを見出しやすい。ほかで一般参加者がイベントへの参加意識を持ちやすいのは「お目当てのサークルのひととのコミュニケーション」上においてだろうが、有名サークルを重点的に回っているようなひとの場合この機会も持ちづらい(サークル側としても、忙しすぎて個別に対応している余裕がない)。それにコミケ一般参加者に許された実稼働時間は六時間未満であるから、一日に買いたい本がたくさんある場合には無駄話をしている余裕もほとんどない。壁や島角ばかりで島の中まで入っていかないような場合、実質的な「(その場に、自分とは別の立場で関与している)他者」との接触は皆無に近いかもしれない。さらにいえば、最近になると同人誌すら買わず企業ブースだけ回っているようなひとも居るようなので、このへんになると「イベントは全員が参加者で…」などというのはお門違いだろう。まあこのあたり線引きの曖昧さも魅力となっているのだろうからあんまアレだが、「プロがアマチュアとして参加しているサークルに買いに行く」のともわけがちがう。企業ブースの場合明示的に「プロがプロとして参加している」のだから、これは客商売そのものだ。
    • さらにいえば、「アマチュアイベントは全員が参加者で…」には弊害もつきまとう。上記のように参加形態によって意識機会の質量が違う問題もあるが、それと別にそもそもこういった不文律は「空気」として運用されるわけなので、「空気読め」問題になったり、「空気読めないひとが差別される」ことになったりとか、まあ狭い人文地理で似たルール上の人間同士でやっているぶんにはあまり問題なくても、大規模化してきていろんな文化の人間が混じり合うようになってくると、空気同士での調停も必要になってくるが、それができるような人間は少ないし、またそういった調停にはコストがかかりがちなので、結局「全体のコストが青天井になるのを抑止し、また少人数に負荷が集中するのを避けるための」軽い連帯であったものが、その維持のため少人数に高負荷をかけてしまうことになりかねない。
    • また、「全員が参加者」主義が行き過ぎてしまうと「お客さん」に対して「自分たちの正義」を背景にした差別がはじまってしまったりもしてやりきれない(←もちろん、この「やりきれなさ」自体「空気読めないひとに対する差別」の顕在化の一パターンだ)。そもそもこういった「無償の善意」の集合は、それが無報酬であることに納得して参加するかぎりにおいて偉いわけであるから、自分たちの「正しさ」を根拠に他者を排撃するというのは自分たちの偉さを台無しにする行動であって無粋だ。が、まあ「おれは苦労してるのにあいつらはラクしやがって」的なストレスを自発的に背負ってしまう流れが生まれるのもまた、イベントの大規模化に伴って「お客さん」が発生するのと同様止められない流れではあるし、というかこういった「苦労に対して見返りをほしがる」仕組みをうまく汲み取ってこそ社会はうまくまわっていくわけであるから、そこは一概に否定したもんでもなく、厄介。
    • すこし戻して、一般参加者が横向きに接点を持つ機会が最も多いのは、スタッフ参加者でもサークル参加者でもなく、やはり他の一般参加者であろうと思われて、なぜ一般参加者は一般参加者同士の交流のうえでイベント参加者としての意識を持てないだろうといえるのかといえば、まずひとつには一般参加者同士といっても全体の量が多すぎて、時間内に触れ合える範囲の接点では全体への接続感にまで到達するのが物理的にむずかしいこと。また一般参加者はなんといっても「同人誌を買いに来ている」のであって「ほかの見知らぬオタとつながりを確認する」のは二次的な愉しみであろうし、であれば実際問題接点があるとすれば一緒にコミケに参加することになった元来の友人たちであったり、休憩やトイレや待ち合わせ中などで手助けしたりカタログ貸し借りしたりするような、不意の接点が数回あるかないかであろうこと。さらには、どれだけ見知らぬ他人と仲良くなろうと「同じ立場の人間」同士では、やはりその連帯感は立場内でのものに留まりコミケ全体に接続するような感覚にまでは育ちづらいであろうこと(消費者としての連帯であれば、たとえば TGS のような商業イベントの一般客同士にも生じうる)。イベント自体への参加意識をいうなら、自分とは参加形態の違う人間との接点を確認して「あーいろいろあるけどみんなここへ来てそれぞれがんばってんだ」と納得するのが、やはり一番手っ取り早い。
    • …で、こういった文脈でいうと、古参の口うるさい参加者のひとたちからみて「自覚をもった参加者」の新しい受け皿になりうるのかもしれない層としての「好きで徹夜をやりに来ている徹夜組」のひとたちが浮かび上がってきて複雑。ようするに「ただ同人誌買うだけ」では満足できず、「同じ目的をもって集まった仲間とダラダラ夜明かしをする連帯感」も欲しいという欲求が、彼らをとても快適とはいえない会場付近の徹夜へ突き動かしているわけだ。大規模化した徹夜集団は運営側にとって警備上コスト上そのほか諸々迷惑でしかない存在だから、その行動に弁護の余地はないんだけど、たぶんああいった「馴れ合いたい欲望」自体は現代にあるオタ的な因業のひとつとして認知していかなければならないだろうと思うし、それが「似た者同士」の範疇から「他人も含めて」まで拡大してゆけば、道徳オタなひとたちにとっても過ごしやすい環境に寄与していくんではないかと思うけど。むずかしいか。「我々は系を成す一体の一部である」という実感て、ある意味馴れ合いとは逆の感じ方かもだし、上述のとおり一般参加者の実感としてコミケ規模のイベントが「系」として成り立っているように見えるかどうかは疑わしいし。
    • あとまあ、コミケの場合はこのような暗黙のルールに頼ってのみ運営されているような脆弱なイベントではないからそれほどうまくいってなくても問題なく、ブルーシート部の場合は「それでどうにかなるようなら、それはそういうもの」というような投げっぱなしの方針で運営されているようなので、これまた問題ない。
    • もちろん、空気による場の支配への意識を容認しないモヒカン族的なひとから見れば、「脆弱ですね」で終わり。
  • 歴史証言
    • 「99 年の大学新歓時期に、オタ系サークル(女子も居る)の新入生で自己紹介シートに「妹募集中」と書いているひとがいた」
  • 基本的に(理解可能の)言葉の遣り取りは対話者を賢くこそすれ頭悪くはしないはずなので、馬鹿にされることで実際に馬鹿になるのは、それはもとから馬鹿だったひとの馬鹿さ加減がその時点で一挙に露呈されるという状況だけだと言っておきたいが(ひとは他人の頭の良さには関心を持つけど、頭の悪さに無関心なものだから、単に頭が悪いというのは案外目立たないものなのだ)、実際問題として相手を馬鹿にするテクニックが存在することもまた認めざるをえないよね問題
    • この場合でいうと、他人を馬鹿にするテクニックには二種類が存在するということになる。つまり「相手を(元から)馬鹿(だったこと)にする」方法と「相手を(これから)馬鹿(な振る舞いしかできないよう)にする」方法。さらに分類すると、後者は「実際に相手のパフォーマンスの余地を狭めていく(馬鹿にしてゆく)」方法と「周囲の価値観に干渉して、相手のパフォーマンスを馬鹿として評価されるよう誘導していく」方法に分けられる。まとめると以下。
      • 「相手を(元から)馬鹿(だったこと)にする」方法
        • 相手のポテンシャルの低さを指摘する方法。相手が実際に馬鹿であった場合の対処としては適正。
      • 「相手を(これから)馬鹿(な振る舞いしかできないよう)にする」方法
        • 相手のパフォーマンスを一時的に低下させる方法。その場限定という意味でテクニック的。
          • 「実際に相手のパフォーマンスの余地を狭めていく(馬鹿にしてゆく)」方法
            • ポテンシャルが十分に高くとも、パフォーマンスが冴えなければやはり相手は「馬鹿な振る舞い」をしてしまう。
          • 「周囲の価値観に干渉して、相手が馬鹿として評価されるよう誘導していく(馬鹿に見せる)」方法
            • 相手が馬鹿であるか馬鹿でないかを問わず、その場のオーディエンスから「相手が馬鹿にしか見えない」ようにしてしまう。
    • テクニックとしての「馬鹿にしてゆく方法」としてメジャーなのは、頻繁に話題をすり替えたり論点をズラしたり当事者性を指摘したり関係ありなしを問わず適当な図星を突いたりして相手のペースを狂わせる方法。いわば口論のガチャプレイというか。対話慣れしてなかったり、ひとがよかったり、モヒカン族じゃなかったりするひとは、これだけでもかなりパフォーマンスを低下させられる。けどこうしたガチャプレイで相手のパフォーマンスを低下させてしまうと、結局対話によって得られる自分の「賢くなれる可能性」も相対的に削ってしまうので、ガチャプレイに頼った口論ばかりしていると初心者をみつけて狩る以外にできることがなくなっていく。
      • OFF 会をゲーセンに喩えると、議論厨おおあばれみたいな事態を好まず適当に問題点を軽く突き合わせるだけで話が終わりがちのヌルめの「地元ゲーセン」と、議論ガチ勢が集まってエッジでシュートなおしゃれ会話をドライブさせがちの「本番ゲーセン」みたいな差があったりする(はてなーなひとの集まりに限っても、結構多様なかんじだ)。地元ノリの OFF 会だと適当に場を混ぜ返したほうが全体的にうまくいったり、また本番ノリの OFF 会でも膠着状況に陥りそうだったら適当なタイミングで次のフレームに移行させる必要が出てきたりと、(目的は違えど)ガチャプレイが有効な局面はけっこうあちこちにある。相手を馬鹿にするのと同じ比率で自分も馬鹿になってゆく、くらいの度合いで捉えておいたほうがよいだろう。
    • オーディエンスを味方につけるのは同調圧力勢やヤンキー勢の好むテクニックだが、これをうまく使えるかどうかは「相手が馬鹿であるかどうか」よりも「自分が頭いいかどうか」にかかっているので(頭悪いのにこのテクニックに頼ると、効果時間と範囲がかなり限定されるうえに、(特にログの残るネット議論様式では)外部から「取り巻き含んだあっちのほうが馬鹿だな」と容易に観測されてしまうので、あまり有効といえない)手っ取り早いようでいてかなり高等テク。

疲れた。やめた。諦めた。毎度のパターンだ。あとで思い出したら後日なにごともなかったかのようにその日付に書こう。このての記録は何回も同じこと考える手間を減らすためのものなわけだが、そのための効率も考えないと形骸化するのだから、もうちょっと考えてやらんといかんよな。検索性を上げるためにはもっと一セクションを短く区切るべきだろうし…。