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オタクが死んだらしい

最近岡田斗司夫が、「オタクは死んだ」というような趣旨のトークイベントを行ったらしい。オタクが死んだことが原因で即死する人間は居ないので大した問題ではない。けどもそれなりには問題だ。

詳しくは後で考えるとして、断片的に(あまり関係なく)浮かんだフレーズをメモする。

  • おれは岡田氏とは一回り世代が違うので、氏の見ているものや氏の抱いている思いみたいなものに共感する余地はない(どちらかといえばおれは、岡田氏の属する世代に「教育されてきた」世代に属するだろう。あまり教育された覚えはないんだけど、洗脳というのは覚えのあるなしとは関係ないわけなので省略)。
  • メンヘルとか非モテとか、そういった「ネガティブでつながる自由」みたいな話に当てはめてオタクの定義問題を考えると、なんだかとても陰鬱な気分になる。
    • おれの場合はそのように考えていないが、たぶんこれに近い考えのひとは居る(居た)。どの時代のオタが主にそうかとか、そのへんは後回し。
    • 自分がオタクであるか否かと、承認要求がごっちゃになっているので面倒くさい。ただ、単純に「自己承認に失敗するとロクなことにならない」的な話として流していいかといえばそうでもない。もうちょっと複雑。「承認されたい」という要求でなく「承認されるものである」という儀礼として定着しちゃってる可能性とかもあるので。
    • たとえば「SF は 1000 冊読んで一人前」話(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20060414#p1)に対して、わざわざ開き直ったりいじけてみせたりとかするようなリアクションは異様なのだが(←あれはたぶん正しい話だが、その筋合いの正しさと自分の存在とは何の関係もないわけなので(←「誰かに認定されるために」SF を読むっていう状況の不自然さは何なのだ!)、どのようなものであれその話と自分の存在を絡めてリアクションすること自体過剰反応だ)、それが異様ではないひともたぶん居るんだろう的な。
    • ようするにおれとしては「自称としてのオタク」だけがあればよく、「他称としてのオタク」は不要と思っているわけなのだが、しかし自称としてのオタクが消費されてしまったというのは昨年夏の宴会(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20050828#p2)で確認してしまっている。たぶん岡田氏の見ているような光景とは相当離れているが、おれも死ぬ側に立ってるオタということになるか。
      • なんでほかのオタから「お前もオタクである」と認定されなければならないのだ。「あー、おれはオタクなんだな」という個人的体験を得るか得ないかというだけの問題ではないのか(←てことは、おれは神秘体験至上主義か)。
  • 自分以外の立場の代弁をする、というのはオタクの態度ではない、とおれは思っている。
    • これはネット上での振舞い方にも関係しているので切り分けは曖昧。ようするに「ロールプレイとして主張したことがきっかけで揉め事が発生した場合、誰かが幸福になることはない(不用意な代弁をして、突っ込まれたとき、開き直ってすぐいやになってみせるひととかを結構見る。ああいう無残な論争は、書いたひとも突っ込んだひともそのサイトの読者も後味悪いだろう)」という一般則とか、単純な「代弁 UZEE(明らかに当人は困ってないのに取ってつけたように義憤にだけは燃えてみせるしらじらしさ問題)」とかなんとか。
    • オタは「声なき声」を想定するのが得意という性能の問題もある。「声なき声」が聞こえすぎると、「本当はそこには誰も居ないのに、その場所から声が聞こえたような気になって代弁を始める」とかいう不毛な状態が起きる場合があり、それは虚しいので、保険をかけておく意味合いもある、か?
    • 欲望すら判で押された現代人たる我々は、それがゆえに自分の内にある(かもしれない)「ユニークな欲望」を(果たしてそれが存在するのかどうか、というレベルで)追求すべきである、とする考え方。健常な人間は行動において自分自身を騙せないが、思考においてはもとから騙されているようなものであって、これを監視するのは容易でない。ので、余計なことに気を取られている余裕などない。
  • 「オタクが死ぬ」と考えたことはない
    • 「おれがオタクでなくなる」ことについてなら、二十代に入ってからこっち延々考えてきた。満足いくだけやりたいことはやったし、あとはどう衰えていきながら円熟していくかを考えればよかろう的な。けどまあ言葉として(意味として?)のオタクはな。死なれてもピンとくるものがない。おれがオタクを大事だと思っているのは、あくまで「おれが自分をオタクだと思っている」というベースの上でのことだし。つまり、おれがオタクでなくなるとき、おれの中でのオタクは死ぬんだけど、それでもやっぱりそれは「オタクが死んだ」とはならず「おれはオタクじゃなくなった」という話なんだよなあ。そこいらへんはやはり「物心ついたときすでにオタクが整備されていた」おれの世代の感覚の甘さだろうな。物心ついたときすでにインターネットがあった世代には、「それがなくなるものかもしれない」という発想はむずかしかろう的なアレと同様の。
    • たぶん岡田氏のいってる「オタク is dead」は、彼の中でのオタクという用語の指すビジョンが根付くことのできるコミュニティはすでに滅んでいる(まだ存在していても、そこからなにかが展張していくものではなくなった)、というようなニュアンスなのだろう。氏自身がオタクであるか否かとかとは関係ないはずだ。オタキングとまで自称したようなひとであれば、余力ででも死ぬまでオタクをやっていけるものではないのか。業界人としての岡田氏、業界におけるオタク文化人的な、とかそこいらへんについてはよくわからない領域だが、氏の言っているようなことというのは、「その領分での」死んだという認識の話なんだろうと思う。

単に「おっさんの泣き言」と受け取るなら、呆然とするしかない話だ。おれがシリアスになれない問題でシリアスになっている人間を見ている感覚。岡田氏がオタクの生き死にを気にかけなければならないのは、氏が意識して「舞台側」に立っているからであろうし、その点でも距離がありすぎて「意味はわからんでもないけどたぶんその感覚を共有できるひとは少ないだろう」としかいえない。けども「三十年ちかく諸々暴れまくった岡田氏が、ついに一人になったのか」的な大雑把な感慨はそれなりにある。氏のことはあんま知らないんだけども、よく知らないおれでも名前くらいはそれなりに聞くというあたりで、やはり大物なのだろうなとは思えるし。