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ラジオクリルタイ収録見学

ラジオクリルタイ第六回

行って来た。おもしろかった。ログは 05/08 早朝時点ですでに公開されている。イベントは第一部から第三部まであり、そのうち二部までがネット公開。第三部はわりとブロークンな竹熊氏トーク&質問タイムというかんじで、音声収録は行われていない。さらに収録後に飯屋で二次会があり、そのあとカラオケ屋で三次会があり、四次会があった。おれはその四次会まで参加して始発の電車で帰った。仮面ライダーカブトの時間までは起きているつもりだったが、シャワー浴びたら速攻で寝入ってしまった。

思い出しつつ感想や考えたことなど。

  • 第一部
    • ラジオ第一部冒頭、一応参加者全員で「ジャーンジャーンジャーン」言ってるんだけど、マイクの関係で竹熊氏と加野瀬氏の音声以外ほとんど聞こえず。
    • はてな非モテと竹熊氏というと、なんとなく絡む話はありそうだけどもたぶんかなり語り口に温度差というか、経験の質量などの関係もありつつものの大小観が違うのではと思っていて、今回ラジオクリルタイのゲストの一人が竹熊氏だという話を見たとき「なんだかやけに偉いひとを呼んだものだな」という感想と「なぜ竹熊氏なのか?」という疑問が同時にあった。まあとにかく細かい筋合いとかの話はひとまず置いといて、偉い人の話を聞いてみようってことかなと思った。話はおもしろかったし、普段のように身とか蓋とか言ってるとなかなか進まない話がさっさと展開したりとかして、なるほどなと思った。
    • 竹熊氏の「我々は生まれながらに勝っているんだから、あとは全部おまけ。そう思えば大抵の悩みはどうってことない」という理屈から、失踪外人氏の「失恋したから死ぬわけじゃないっていう慰めのもつ凄さは、比較としていきなり"死"が持ち出されるって事だよな」(http://d.hatena.ne.jp/lu-and-cy/20050717#p1)を連想してちょっと笑った。自分の感情を交換不可能と思いたいという欲望の強烈さによって支持されている現代生活はけっこういっぱいあると思うのだが、その負の側面もあるよねみたいなかんじか。
  • 第二部
    • 80 年代話。十年前くらいだど結構当事者のひとにそういった話を聞くことができたんだけど、最近はめっきりそういう機会が減っていたので、いいかんじで聞くことができた。というかミニコミ圏出身のひとの話とかは直接聞いたことなかったのでいろいろ補完されたようなかんじ。
    • カノッサの屈辱」にあるデート資本主義が現在言われている恋愛資本主義の出始めか?というような話。そういえばそうか。カノッサは当時本も出てたから買って、それはいまでも手元にある。おれの場合は先に(NEW)MAD TAPE の流れが先に入ってきているので、カノッサについては「メインストリームに乗った類のコラージュ戯作の良品」といった認識。
    • 70 年代にサブカルの中にオタクがあり、80 年代にオタクがサブカルから分化し…みたいな経緯の話。一時代の大きな流れの中から出てきた流れが部分拡大されて分化したり次の時代の大きな流れになっていったりするという例の繰り返しだ。「オタクはサブカルを憎むが、サブカルからはオタクは見えなかった」という当時の認識の話は、なるほどと思いつつ、80 年代以降に物心ついてきたおれの感覚でそのちょっと後の認識をいえば「当時オタクに入門した立場からは、すでにサブカルの流れは細りきっており、オタクからは見えないものになっていた」というかんじで、時代の流れだなと思った。憎むほど興味をもてるものではないし、当時触れていた「最初のコンテンツ」は、十分に「オタク」化の流れの後にあるものだったので、それ以前にはこれはサブカルで…みたいな話をされても、あーそうなんだ程度の話でしかなかっただろう。むかしのオタクがむかしのサブカルを憎んでいたという見方は、それは当時の感覚でいえば正しいだろうし、それなら併せて、その後になると、ちょっと前のサブカルはちょっと前のオタクから疎外されていたともいえるだろう。90 年代中盤のエヴァンゲリオンで、サブカルはようやくオタクに振り向いてもらえたというきっかけがあったので、だからいまだにサブカルのひとにとってはエヴァンゲリオンが大事な事件だったということになってんのかなとか(←単に「オタク vs サブカル」の流れだけに限ればこの程度の認識になってしまうわけなのだ)。現在の話は、よくわからん。
      • というか都市圏在住で 80 年代に物心つけていった場合だと、周辺にまだサブカル勢の残り香みたいなものが残っていたはずなので、おれと同年代でも「いやおれらの頃にはまだサブカルって結構あったよ」という話になりそうだなとも思った。おれは田舎育ちで、田舎には「オタク」なコンテンツは届くけど「サブカル」なコンテンツは届いてなかったから、おれは純朴にオタクとして育つことができた、というかんじか。
    • 学生運動が収まって男性が去勢されて女性が強くなって男性の女性化が……、ちょっとまってくれじゃあなんで「結局女はわからん」という話になるのだ?女性化しても結局男性は女性になれるわけではないんだからそれもまたポーズというか流れに沿った揺り返しに過ぎないって話か?(男性が女性化しているのなら、現在の男性はけっこう女のことが「自分のこととして」理解できているのでは?)と思わなくもなかったけど、まあそれはべつに「萌えがわかるからといってやおいがわかるようになるわけではない」みたいなものかなと思ったのでアレ。
  • 第三部
    • 空っぽの 80 年代を代表する私小説としての「オネアミスの翼
      • 地下鉄サリン事件に象徴される一連の事件の見えざる規模
      • 永遠のアマチュア、無限の遠い目標を設定してがむしゃらに走る空虚さ。中身のなさと膨張と。
        • 「映画監督になる」山賀氏と「宇宙に行く」シロツグと「株価世界一の会社を作る」堀江氏?
        • アニメを作った GAINAX 社、サリンを作ったオウム真理教、web サービスを提供するはてな社?
        • 「それやってどうするの?」の答えのありかなしか?
      • オネアミス→蒼きウルの構造の継承としてのエヴァンゲリオン
        • エヴァに乗れとゲンドウに言われるシンジ」→「ゲンドウが山賀氏でシンジが庵野氏で?」
      • 80 年代を物心つける時期としてスルーしてしまったおれには「80 年代が空しかったのかどうか」の視点が欠けている(←時代感を相対化できる分量の経験が当時にはないのだから当然のこと、それこそ「学生運動世代の苦労も、バブル世代の不幸も知らない。べつに知りたいとも、思わない」だ)。竹熊氏などは十分に物心を熟成させたあとで 80 年代に直面してそれを通過してきた世代なのだから、バブリーなそういった時代の空気の良し悪しみたいなことがよくわかるのだろうし、その流れに沿った重要さでオネアミスエヴァンゲリオンを語れるのだろうなと思った。確かに言われればそれはそのとおりだろうと思える話で、ためになった。
    • 「本当になにかがやりたいひとは、とりあえずそれをやりはじめてしまうものだから、なにかがやりたいという理由でとりあえず学校に入ってしまうようだと失敗する」的な話。
      • とにかく最近はなにかをやるために必要なお金も人力も少なく済むようになってきているので、自己表現のハードルが下がってきた。
      • ハードルが下がると、いままではなかなか広まる機会のなかったような多様な表現が活動として可能になってくるし、またこれまでは不可能だったような条件が、小さなトリガのリンクによって可能になってくる。ますます多量多様になっていく。
      • 個人制作が組織制作を出し抜いてメジャーストリームに躍り出ることもできる時代。
      • …というあたりからつながって、「でも非モテというのは「とくにやりたいことがないひと」の集合なんではないか」みたいな筋合いとぶつかっていく話だったんだろうけど、というか半ばハプニング的にそのへんを突っ込む質問とかが飛び出したりしておもしろかったのだが、筋合いがいまいちかみ合わないまま時間切れになってしまいこのへんまで。実際におれはラジオクリルタイについて、ある意味「生きてるぶんに特になにかを表現しなくてもいいひとたちが、「そうはいっても生きているからには表現というものはなされるべきなのだろう」というような、わりと(内から湧き出す衝動によってでなく)外在するモチベーションに「敢えて」自分を沿わせるというあそびのうえで行っているイベント」という一面もあるのではないかと思っているわけなのだが、無論それだけではなかろうけど、どうなんだ。
        • 関連して、今年 2 月あたりから微妙に書きあぐねている「表現するものがないのに「表現しなければならない」という強迫が強くなってしまったときに出来上がるコンテンツのようなもの、と対峙してゆくむずかしさ」問題みたいなのとも微妙にリンクしそうなかんじ。
      • あと、個人制作でわりとメジャーに乗れるようなコンテンツを開発できるようになって以降に起こる問題については、わりとサバサバと見ている自分も居て複雑。
        • 以前の少品種大量生産というのは、売るべきモノの候補が選ぶ前にだいぶ絞られることになるので「流通側に都合がよかった」時代で、最近はなんでも多品種少量生産の時代になってきているので、ここで出たような話であるとか岡田氏の言ってるようなプチクリであるとか「クリエイター」という用語が消費されつくしてしまったから出てきたのであろう代替語であるとことの「ものづくり」とか、そういうふうな「「ある意味で」表現側に都合のいい状況」というふうに現状を切り取ってみてレッツポジティブシンキングやで!みたいなかんじかなというか。
        • ようするに個人クリエイタは既存の制作組織に対しては群として台頭していくことになるのでその中の個々をみればやはりべつに既存のような「なにかよさそうな身分」であるわけではない。コストが下がっているので一人でも出来る、片手間でもはじめられる、誰でも手を出せる、ということは大勢と競合する、一発逆転が毎日起きる、安定はしない。プロフェッショナル化しなくても済むかわりにプロフェッショナル化できるような体制ではなくなる(プロとアマチュアの境界が揺らぐというのは、プロ側にあった構造が貧弱になるということでもある)、大多数のひとにとってこれ一本で食っていくというような「商売」ではないことになり、そういうものは別途確保しつつとか、でなかったら人生のうちの十年とか数年分とかに組み込むよう設計していかないとどのみち収まらない。
        • そういったクリエイタ候補を売っていく側も大変で、とにかく大量に抱えておいてよさそうなものが出来上がった順に数 % を拾っていってあとは放牧しておくというような不確かなやりかたが幸せとも思えない。やはり多少なりと「こいつなら安心」と思える単位を抱えておけるほうがいいだろう。なんであれ「個人」というのは不安定すぎる。明日事故に遭えば絵が描けなくなるかもしれないし、または「もう作りたいものがなくなった」とか言い出すかもしれない(個人クリエイタの Truck Number は常に 1 なのだ→http://www.wdic.org/w/TECH/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC)。保険をかける意味でも、ある程度は制作会社であるとか、組織単位になっていないとだめじゃないのかなあ。
        • もちろん「べつにここで儲からなくてもいいや」と割り切ってしまえば、それはそれでやりたいことをやりつつ万一(実際には 1/10000 より低確率とは思うが)にはスポットライトが当たったりして他人からの評価や実質的な利益ももらえるかもしれない「場」としてポジティブに眺めることもできるよね、という話としては、やはりこれはこれで綺麗な考え方ではあるのだ。科学の進歩のもたらす既存価値観破壊の一端というか。Web 2.0 が消費者的にすばらしいかもしれないというのもこの筋合いからいえる話で。ひょっとしたら大儲けにつながるかもしれないリソースがあるなら、自宅のガレージで腐らせておくのはやめといて、web に流して他人の大儲けのために役立てることができれば世の中がハッピーになっていいじゃんというか。「自分はここで儲けなくてもいいや」という諦めのうえにある情報募金的な感覚、ささやかな自己満足、豊穣になってゆく web に一端なりと自分が関与したと思える自負、ほんのすこしの仮託。実際にその感じ方はおれにも確かにあるというか、ここ 4 年くらいは web 人格としての考え方のベースになっているようにも思う。

随分長くなってしまったので、二次会以降の感想については翌日の日記に回す(→http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20060507#p1)。

連休最終日はなにもしない日ということで、本日はイベント最終日と規定してあるのだから連休パノラマ写真シリーズもなんかよさそうな地点から…と思っていたんだけどデジカメのバッテリ充電しかけたまま本体だけ持ってきてしまったことに渋谷着いた時点で気付いてガックリ。一応携帯電話でも写真は撮れるけどもういいや適当で。そのへんで。あんまどうせべつにアレだし。

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PGR1 や JSRF 等、初代 XBOX ローンチタイトルと馴染み深い渋谷駅前。