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お前 1000 冊読んでるか?

○○者としてまず一人前と言われるためには○○冊くらい読んでおけ、みたいな話は昔からよく聞いたけど、ていうか今はほとんど聞かないんだけど、いまでもそういう話の通用している界隈がないものかなーと思って検索してみたら、あった。SF 者は 1,000 冊読んで一人前らしい。

  • 269 :名無しは無慈悲な夜の女王 :2005/03/29(火) 02:49:49

>>268
お前 1000 冊読んでるか?
読んでないならそれを言う権利はないぞ。

  • 272 :名無しは無慈悲な夜の女王 :2005/03/29(火) 11:40:31

1000 冊っていうその数字に根拠はあるのかな。
いや、単純に気になったんで。単なる思い付き?

某板に貼り付いていた椰子も、作家の名前 20 人(30 人?)とか数字を出していたけど、それはマイルールではないのかな。
SF 界にそういう暗黙の基準があったのならすまない。

  • 273 :名無しは無慈悲な夜の女王 :2005/03/29(火) 12:52:56

SF 1000 冊読破していない人は語る資格無し(2)
http://book3.2ch.net/test/read.cgi/sf/1077797212/l50

SF 界にそういう基準があるんだよ。
二度と書き込むな初心者。

  • 274 :名無しは無慈悲な夜の女王 :2005/03/29(火) 15:16:50

確かに SF 界って最近のアニメのみを見て「SF とは〜」なんて言っちゃう人多いよね。
それだけ SF という概念が拡散したってことなんだろうけど、見てらんないよ。

  • 275 :名無しは無慈悲な夜の女王 :2005/03/29(火) 17:53:29

じゃあ、SF 大会の参加資格に書かなくちゃダメじゃん。

  • 276 :272:2005/03/29(火) 18:06:33

1000 冊でいいなら楽勝で超えてるよ >273
ハヤカワ・創元文庫を買い始めたのは 30 年前の事だし。
自分が本物の SF ファンか、なんて不安になった事もないし
基準なんて気にした事がなかったなあ。

  • 278 :名無しは無慈悲な夜の女王 :2005/03/30(水) 00:01:43

マジレスしちゃうと
1000 冊を流し読んでいる奴と、一冊を読んだ思いを大事にしている奴と
どちらが「本物の」ファンかと問われると、微妙なものがあると思う。
(これは音楽、グルメとどんなジャンルでも言えることだが)数なんてのは所詮ただの数でしかない。
それが、自分の心の弱さをガードしてくれる鉄壁の守りだと思って他人に接するのは愚の、骨頂だろう。

  • 282 :名無しは無慈悲な夜の女王 :2005/03/30(水) 04:32:44

一冊を読んだ思いを大事にしている奴よりも
千冊を読んだ思いを大事にしている奴の方が上。
結局千冊読んでない奴はクズ。

  • 283 :名無しは無慈悲な夜の女王 :2005/03/30(水) 05:10:29

たいした解説もしないが、その人生はまさに映画界の生き証人だった。
初めて映画を見たのは三歳の時。
淀川長治

流しだろうがなんだろうが数を見てるってのはそれだけで武器にはなるよね。
それも重要な要素としても別に問題はないと思うけどな。
少なくともガンダムしか見てなくて、ガンダムばかり深く見てる奴よりはね。

  • 285 :名無しは無慈悲な夜の女王 :2005/03/30(水) 17:50:49

1000 冊切りという根拠ってのは、早川 SF(青背)が 1000 冊を越えているからそこにあるのでは、という穿った見方は当たりかい?

  • 286 :名無しは無慈悲な夜の女王 :2005/03/30(水) 18:38:01

大体正解。
ローダンは別にして、1000 冊読めば国内で読める SF 作品を大体網羅できることから 1000 冊を「SF を語る」ための一定のラインとしてあげる人は多い。>>283 氏の言うとおり、偏った見方や個人的な感想であっても、SF 全体を俯瞰できる一応の知識のある人間の言うことはそれなりの価値があるわけだし。
あと、リアルタイムで読んできた人も尊重される。
共時的な感覚も、それ自体すでに貴重な体験だから。
若い人は頑張ってもそのレベルにたどり着けないもんね。

どちらも備えた淀川長治ってのはすごいよね。
存在自体、だれも追いつけないw

  • 287 :名無しは無慈悲な夜の女王 :2005/03/30(水) 18:42:37

俺、映画も好きなんだけど、その考えよくわかる。
淀川氏の話で小さい頃映写機セットを抱えた人がやってきて、木にシーツをかけて広場で簡易映画館を作って上映していたそれを小さい頃に見た。なんて話、映画好きにはたまらない話だよ。
史料で読むのもいいけど、そういう体験談って貴重だよな。
別に一つの作品だけを後生大事にしてるのもそれはそれで正しいんだろうけど、なかなか真似できないことを経験してる人ってのはすごいよ。

おれの場合でいえば、「1000 冊読んでないとダメだ!」と言われればそれはそのとおりだなと賛同し、「大好きな一冊があればいい!」と言われればそれもそのとおりだと賛同しつつ、実際には数えるまでもなく読了本 1000 冊には全然届いてないかんじ。あまりそういった経験自体を他者と比べてどうこうって話はおもしろさがないわけなんだよな。1000 冊読んでもその経験を自慢に使うようでは未熟だし、一冊への愛を正当化するのも自己愛×自意識過剰×コンプレックスっぽくてみっともないという。そういう一物はあくまで自分の胎に抱えておいて、1000 冊読んだおまえがどんなことをいうのか、一冊を愛するおまえがどんなことをいうのか、ファン同士の交流の質はそこで決まるとみるべきだろう。そして全体の空気感を見渡すことをできるためには最大の知識量が前提となるので(知識さえあれば見渡せるわけではないのでそれ以上のものはやはり要求されるが)、統括のため数をこなしている人材はどのみち偉いし重要と。

ファンコミュニティにおけるヒエラルキ観闘争って、なきゃさびしいけどあってもそれでなにかが自動的に決まるようでもそれはそれで死んでるようなものだと思うし(いや逆ともいえるな、「見上げ見下しの装置」として摩擦を生むくらいなら、ある程度前提を共有できる単位で機械的空気別に隔離分類されたほうがよいとも思える)、なんというかつまりある種の敬意のみによってそれが運用されるかぎりにおいて健全というか、それができる範囲においては理想的なんだけど、なかなかそれが通用しなくもなってきているところがむずかしいというか、なんというか。

変化に辿っておもしろそうな根っこをは二つあって、ひとつはファン交流におけるネットの普及、もうひとつはジャンルに対する作品の流通量。

「1000 冊読んでないとダメだ!」というような筋合いの話が魅力的に為される場というのは主に OFF 会というか、暮らし上のファン交流の場で、これをネット上で読んでも文字の圧力が虚しい。ネットワーク上で交流しているのは我々自身ではなく、我々の発した文字というエージェントだから。存在同士の圧力が直接交流してこそっていう部分がどうしても。モニタの向こう側でそんな話が展開されていようとも、モニタのこちら側の実体は揺らがないわけだしなー的な意識がどうやっても一枚挟まってくるわけなので。回線切ったら即座にバラバラになる世界感においては正露丸的万能腹下し装置「ひとそれぞれ」の影がちらついてあまり突っ込んだ話になりづらい。オフラインでなら「確かにひとはそれぞれだが、しかしこの場この時はただひとつ!」というような筋合いが現出し、(文字どおり)リアルな世界観闘争を行うための敷居が下がる。

で、もうひとつの作品の流通量の話だが、ようするに近年は情報が増えて増えて増えて増えて増えて困っており、一人前と自負できるために必要な分量を考えてたらいまどき 1000 冊どころじゃきかないんだよ的な話になってきているわけだ(なんか認知限界とかそういう話になるのか?)。昔なにかのジャンルが好きといえば、それなりの苦労を経れば大概の作品を網羅することができたのだろうが、現代には「物理的に不可能」みたいな状況になっているジャンルが出てきている。本とか漫画なら読むスピードに個人差があるのでまだ曖昧で救われる部分もあるが、音楽や映画の場合もっとシリアスだ。それを享受するための時間が(理屈のうえでは)試算可能だから。こうなってくると個人の力で「ほぼ完全と自信を持って言える見渡し」を獲得するのが極端にむずかしくなってくる。セレクトが重要になり、優先順位付けは必須となり、ファンとしての自覚にジャンル細分化が前提となり、ようするに我々はバラバラの個別状況に分断される。入手可能の情報量だけが突出して増大したために。身体の大きさに対して視野だけが異常に発達したようなかんじ?いやもちろんそんな一方的な話ではないか。情報量は外側にだけ増大したわけではないから。内部に対しても増え続けているのだ。

ちょっと脱線して新規参入者にとっての障壁の話をすると、昔の 1000 冊といまの 1000 冊ってファンとしての意味が相当違ってきているんじゃないかなと思う。「○○に詳しくなろう」と思ったとして、とりあえずまあ 10 冊とか 100 冊とか読むとする。これだけでもけっこう大変だけど、まあそれくらいの情熱と行動力は前提として要求するとしよう。で、そこで彼は一息ついて「ふう、まだまだ先は長いけど、それなりにだんだんこのジャンルのことがわかってきたかな?」と思って周囲を見渡してみたときに見える世界はどうなのか。むかしの場合なら「おめでとう!あなたのジャンル攻略度は 2% から 10% に上昇しました!」とかだったのが、現代では「0.03% から 0.05% になりました」みたいなかんじ。千里の道も一歩からといっても、歩き続けるためには中間で感じることのできる手応えって大事で、つまりは「ファンとしての自負は、どの時点からでも持ち続けられるに越したことはない」という点で、昔のファンはいまのファンよりもよっぽど手応えを感じながらジャンルに没入することができたんではないかなとか。脱線おわり。

多品種少量生産がますます加速し、特定のジャンルの作品をすべて網羅するのが不可能になった時代を生きるオレたちには、決して得られない知的全能感を味わっていたのだろうな、彼らは。

鈴木氏の言にある「知的全能感」は、もはや現代には見渡すことのできる世界の中のごく小さな領域でしか発揮することのできないささやかな愉しみとなってしまった。べつにボリュームが減ったわけではなく、「ついでにより遠くまで見ることができるようになった」「ついでにより遠くの声がきこえるようになった」というだけの話とも、乱暴に言えはするのだが、しかし誰もが声を出せるようになれば、それを引き受けるジャンルが小さなものでいいなどいう主張は「一人一ジャンル」的な筋合い以外からは虚しい。…あと、これはべつに「昔はよかった」というような話ではない。昔より今のほうがいいに決まっている。でなきゃ悩み事にならない。そして今よりもさらに良くなるはずの将来のためにはどうすればいいのかということを考えておかないといけないわけなのだが…。

…なんかうまく考えがまとまらないので中止。