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非モテラジオ見学

ラジオクリルタイ第五回

以前にも一度見学させてもらった(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20060128#p2ラジオクリルタイの、第五回の収録があるというので渋谷へ。2006 年に入ってからでいえば、たぶん渋谷は非モテ関連のイベント以外では行ってなさそうな気がするので(仕事除く)、おれにとっての渋谷というのは非モテの街だな。

今回のテーマ(?)は「童貞」、トピックは睾丸毒関連等、おもしろかった。二回見たかんじのラジオクリルタイ制作の手順は、会場入りしたあと主なトピックをホワイトボードに書き出し、だいたい出揃ったら収録開始、司会のひとがそれを拾いつつネタ振りするかんじ。「なんか集まって適当に喋ればいいんじゃん」的な投げっぱなしノリでもやれるのだろうが、それなりの段取りのもと行われる。安いとはいえ有料の会議室を時間切って借りて収録するというあたりで、適度に締めと緩めを調整しているのかな。タイムキーパーは録音担当のひとが兼任しているかんじだけど、司会のひともそれと別にストップウォッチを持っている。けどまあ podcast なのでそれほど厳密ではないのか。どちらかといえば公開用の mp3 のファイルサイズと、あと会議室のレンタル時間で自動的に番組長が決まっているようにみえる。

それと関係なく最近思ったこと。

  • 非モテと当事者性
    • 「真の非モテ」言説
    • 非モテ」の中に「真の非モテ」を想定するというのは、それこそ「男」と「漢」を区別する類のオタマッチョイズムに近く、モテないという尺度での内ゲバにしかつながらなそうなので、エコじゃない気がする。
    • おれの場合は「仮に真の非モテが存在するとしても、彼らを発見するのはむずかしい」「べつに真の非モテ以外でも、非モテ非モテ」「非モテは真の非モテを目指すべきではないし、その必要もない」と考えている。
    • おれが考える真の非モテというのは、客観的な非モテとしての究極。「冴えない」「目立たない」「他者からの承認が得られない」といった要素の象徴。石ころ帽子をかぶったのび太。ある種の理想であり、空論ともいえる。
    • ネット言説にある真の非モテというのは、主観的な非モテとしての求道論としてあるのかな。「非モテの当事者性」として指摘されがちなのは「真の非モテは行動しない」→「ゆえに、非モテであれば(行動への)誘惑を断ち切るべき=真の非モテを目指すべき」といった筋合い。この場合意識されているのは「我々は非モテだが、真の非モテではない」という問題かと思う。
    • おれの場合は、当事者性への意識は行動を制約しないと考えている。
      • もし自分が生まれながらの「真の非モテ」であれば、脱オタしようが合コン出ようが OFF 会行こうが集団の中に埋没してしまい個体として認知されることなく、「なるほど自分は非モテだな」という証拠が増えていくだけであるから、安心して行動してよい。何をやってもモテの当事者性へは接続しないはずである。
      • 何らかの行動がモテの当事者性に接続してしまうようなら、それによって「自分がどの程度の非モテであるか」を確認できるというだけ。
      • おれが「仮に真の非モテが存在するとしても、彼らを発見するのはむずかしい」と考えているのは、つまりそういうことで、(彼らが真の非モテであるかぎり)その行動をおれが認知することはできないはずだから。おれに「見える」程度の世界に、真の非モテが居ようはずがない。
      • とはいえ、そういった感覚を非モテ同士で共有することこそ、非モテ同士のチキンレースというか、デスレース開始ということにはなってしまうわけか(→非モテは同胞の中に同胞内の敗者を出さないために、誰も一歩たりとも動くべきでないということか)。
      • まあ実際問題としては、真の非モテであろうがなんだろうが、その存在を確実に社会に認めさせる手段はある。運動なりデモなり。現代には戸籍があるし、石ころ帽子はない。「テロ」という表現を使うひとも居るが、それは(自分の中にある「真の非モテ」への)理想と(自分の存在とそれを取り巻く)現実の共存共栄路線なのかなと理解している。
        • 自分の行動のすべてをあらかじめ「テロ」と断じることで、それが「モテの当事者性」への接続であると他者から定義付けられることは回避される(すくなくとも主張の筋道は立つ)から、自分の「非モテの当事者性」は保護される、というかんじか?