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THE LORD OF THE RINGS - THE RETURN OF THE KING

おれの場合瀬田貞二氏訳版「指輪物語」が原体験であり、P. ジャクソン氏監督による「ロードオブザリング」については、実のところいうほどリスペクトする部分はない。にも関らず、かなり頻繁にこの映画を繰り返して見ることができているというのはちょっと不思議で、同時に納得する部分もある。瀬田貞二氏訳の本は数年に一度読み返せればいいほうなのだが、PJ 氏の映画については数日中に何回でも見れるし、実際何度も見た。たのしんでいる。なんというのか。

それはそれとして、おれが洋ものファンタジー映画を見てておもしろがりつつも苛々する点はいくつかあるが、要約すると以下の三つで、

  • 大人がいたずらっぽく満面の笑みを浮かべて子供にイノセントな夢を提供してやるぞという姿勢。
    • 最近だとハリーポッター映画版に顕著。LOTR はかなりこの感触が薄い。あまり子供向けとは言い難い気がするからだろう。
    • これはおれの「大人の分際で子供にジャストフィットなプレゼントを提供しようとでもいうかボケそんなものはおれが勝手に探すのでほっとけ、あとその余裕たらしいニヤニヤ笑いをいますぐやめろお釈迦様にでもなったつもりか不愉快だ、大人は得意げに仏頂面さげてりゃいいんだすっこんでろ」というような中坊神経(反抗期担当)の残滓なので、この感じ方は今後とも大事にしていきたい。
  • 小さい馬鹿が話をひっかきまわす。
    • これはファンタジーに限らずだいたいどのジャンルにもみられるが、ファンタジーものでいっそう強調されやすいパターンかなと思う。以前は国産アニメでもよく見られた(←クソ美少女が考えなしによけいなボタンを押したせいで話がこじれたり一行が大ピンチに)。古い例えになるが「天空戦記シュラト」における蓬莱仙のラクシュとかああいう。
    • 次の項目でだいたいまとめられるが、もちろんこれも中坊神経の残滓なので大事にしていきたい。
  • 小さい勇気が世界を救う
    • 歴戦の兵でも倒せなかったラスボスが、無力な小人の最後の一押しでポックリ逝ってハッピーエンド(←その最後の一押しのネタは、大抵最序盤で伏線を張られている)。このパターンのむかつきの実際は「作品がそのパターンでオチることが、もうだいたい最初からわかっていて、その正しさは認めつつも、道中の演出の積み重なりで徐々に渋い顔になっていき、結末に行き着くとどうにもうんざりした気分になる」というような形。
    • LOTR の場合ここも巧妙に回避されていて好感。ビルボがとかフロドがとかサムがとかゴクリがとか、個々の行為と責任上のものでなく、「彼らが」という、そのめぐり合わせによって指輪は葬り去られるからだ(←さすがにこれはネタバレじゃないよなと思うけど一応 spoiler に指定しておく)。結果からいえばほとんど運命のようなものといえるが、しかしそこにはさまざまな意思や意図がのっかっていたわけなので、やはり功績は彼ら(ひいては関係者全員)に求められるといえるし、単純ではない。
    • これはおれの「はいはいわかったよわかってんだよそんなこた、ぼくたち地球人であり命の重さに違いなし、万人あればこそ万人の世界、大も小も一様に尊い、そこを強調するためにとりあえずちっこいほうを持ち上げとくわけですね、でもそれでいったらみんなが居たからこそのお話なのであって要らないひとなど居ないわけでべつにそこはちっこいのだけじゃなくてでっかいのだって偉いわけじゃん論功行賞でギャップをつけてトータルでバランス保つってのは、まあ結果が正しいんだからそれでいいんだけどやっぱりどっか納得いかないなあっていうか逆差別感が」というような中坊神経(やりきれなさ担当)の残滓なので、この感じ方は今後とも大事にしていきたい。
    • ていうかこれもまたおれの幼少体験からはじまってるので現在とはズレてるんだよな。なぜならおれはむかし子供であり、いま大人だから。子供の時分に見た場合の「小さい勇気が世界を救う」のむかつきは、「そんなんでいいなら大事になるまえに火消しとけ、子供に手間かけさすな大人」であり、大人になった現在でいうとたぶん「あー大人は大雑把だからなー、小人がんばれ」であり、現状肯定路線で整頓すればあまり問題ないはず本当は。でもそこはいまだに脳内衆議院が激烈に抵抗している。モラトリアムの終焉は遠い。
    • あと「小さい勇気が世界を救う」は「小さい馬鹿が話をひっかきまわす」とセットになっており、背負わざるをえない因業&その免罪が不可分という部分に落ちる。登場人物全員によって出来上がった出来のよい話は、登場人物の一人でも欠ければ大団円に帰結しないので、途中のポカもスカもハッピーエンドによって全肯定され、というかようするにそこは肯定していかないとハッピーエンドにたどり着けなかったのではないかというリスクと取り引きされてるよーな納得の仕方は納得できないのだ中坊は。

映像作品で主に発動する。原作本とかだと、指輪物語に限らずそういった臭みによって辛いとか読みたくないとかつまんないとか思ったことはあまりない(語り口が淡白だからってのもある)。映像演出化する際の避けられない臭みとしてそれが生じているのかもしれない。で、LOTR はもともとそのパターンの大本命みたいな話なんだけど、なぜだか拒否感があまりないんだよな。ほかのファンタジー映画だと大体だめなのに。LOTR も三作目になってくると、かなり感傷寄りの絵作りが増えてくるので徐々に臭ってくるのだが、それでもまだ許容範囲に収まっている。やっぱ一作目・二作目と前提があるからか。

さらにこういった感覚は日本語吹替え版で見ると強調される傾向がある。さっきまた tRoTK を、はじめて言語設定を日本語吹替えにしてみたら相当つらかった。これだこのかんじ。LOTR といえども耐え難い。もろにニュアンスがのっかってて辛い。ていうかそのニュアンスは誤りなのでのっけるなといいたい。けどたぶんそれで正しい。観賞脳内でコンフリクト発生、ぶつかる主体、飛ぶヒューズ、落ちるブレーカー、踊るスクリーンセーバー、降臨するターミネーター。英語だと平気なのにな。語感の不思議。やっぱ自国語だから抑揚を受信しすぎて、想像でいい具合に適化して落とせないからかな。おれは他人の発するこういう感情表現が、本来嫌いなのだろう。またはおれの問題でなく、言語変換時に生じる誤差かもしれない。わかったわかった、他人事だ。

おれが英語圏に住んでれば、英語以外音声なら大丈夫とかそんなかんじだったかもしれない。幻想住人なのに現代人みたいな感じ方(表し方)、役者の表現能が透けて見えるような世界はおれにとってのファンタジーというわけではちっともないんだという。このごろはガイジン役者のガイジン演技でも、上手と大根の区別が微妙にわかるようになってはきたけど、それでも基本的に英語演技ならその情緒はおれの知ったことじゃないので、脳内フィルタをかけることができるんだろう。

とはいっても、なぜ登場人物の感情の動きを追えるかといえば、登場人物がおれと感じ方を共有している(感じ方を共有したものとしての演技されている)からであって、そこを外して真に幻想住人であるかのように振舞われた場合、おれがかれらの感情をどう思うのか(←おもしろいと思う能力がおれにあるか)、またはそもそもそれを感情として感じることができるのか、などの根本的な話が、受け手側の課題としてある。そうした問題は、そもそも作品を現代人が作る以上、表現者自身も現代人的な言語以外を持っているわけがないことから、実際には問題になりようがなく、あらかじめ備える必要などは皆無といっていいけど(←オタクでないなら)、しかしある程度模擬戦的なものは行える、異文化圏の作品や、現代以前に作られた作品を見ればいいのだ、技術技法と不可分ではありつつも、おれがまったく想像もしたことのない言語や風景に立脚した感情が、そこには(少なくともそれを表現しようとする意図が)存在している可能性があって、果たしておれはそういったものに対してこれまでどういう視線を注いできたのかとか考えると、うーむ、ちょっとまだなんともわからんというか、想像力なきボンクラは現代作品見て不満を述べつつ安心してるのがお似合いだという結論にしかならない気もするが、それだとくやしいのでもうちょっと先延ばしにしたい。ディフォルメして抽出すれば、これは「自分がちっとも大切に思わないことを大切にしてるひとがいるのだ」という、それを認める能力のありなしの話ともいえる、そこでつまづいてるようではセカイ系未満だ。