matakimika@hatenadiary.jp

WELCOME TO MY HOME PAGE(Fake) ! LINK FREE ! Sorry, Japanese only. 私のホームページへようこそ!

人間五十年

悪魔将軍 24d | 3 of 4

人生五十年、外天(一昼夜が人間界の50年に当たる四天王)の内とくらぶれば夢まぼろしのごとくなり

人間五十年下天(けてむ)のうちを比ぶれば 夢まぼろしのごとくなり。ひとたび生をうけ 滅せぬ者のあるべきか

人間五十年、化天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を受け滅せぬ者の有るべきか。

「人間五十年」に関する文書は多い。「人生五十年」でもたくさん出てくる。てきとうに検索しても敦盛、信長などの単語と絡んでいろいろ引っかかる。「げてん」については、おれは「下天」で覚えてたんだけど「外天」と書いてあるものもある。実際には原典が「化天」で、信長版は「下天」という説が有力っぽい(http://www.asahi-net.or.jp/~zb5y-wd/nobunaga.htm ページ下)んだけど、どれが正しいのか調べが及ばなかった。

まあ細かいところはよくわからんのであれだが、ようするに人間五十年は、ものすごくスケールの大きい時間で考えてみれば自分たちなんざちいせえちいせえ、それこそ夢みたいなもんだと言っているのだろう。あんま考えてみたことがなかったのでいままで気づかなかったのだがこれはすごい。おれなどの凡俗の場合、その「ものすごくスケールの大きい時間」のほうがよっぽど夢幻であり、これに共感することはできないのだ。抵抗感なく読んでいたのは、これに無関心だったからに過ぎない。視点の取りかたがまったく違う。読めるのにわかりづらい文とはこういうことか。好例だ。天下を背負う気概のあった連中の心境は、やはりそれ相応に近くて遠い。

それはそれとして理解可能のロジックもなくはない。夢幻を永遠と捉えてみれば、一瞬であるかのように短い時間にこそそれはあるという捉え方によって、オタとしてとてこれはよくわかる話にもなりえる。無限のように大きなスケールでなく、永遠はごく短いタイムスケールの中からこそ見出せるものだという経験則は、それこそ凡俗的な理解のうえにこそあるだろう(直結はしながわかりやすい変形例としては→「時間よ止まれ!」だ)。ようするに永遠とは、なんにせよ実感を言語化するうえで生まれた表現なのだから時間というレイヤ上で説明する以外に方法がない言葉なわけだが、しかし同時に、時間によって説明されるものではないということだ。より短絡で狭量な、つまり凡俗的な我々のほうが、永遠を身近な表現に感じうる思う。ただし、そのぶん切実さには欠けるかもしれない。敦盛は夢幻によって諸行無常をあらわし、信長は夢幻ゆえに情熱を燃やし、そしてオタにとって夢幻は萌えるものだ。