matakimika@hatenadiary.jp

WELCOME TO MY HOME PAGE(Fake) ! LINK FREE ! Sorry, Japanese only. 私のホームページへようこそ!

沈黙の艦隊

沈黙の艦隊愛蔵版

かわぐちかいじ沈黙の艦隊」。「ジパング」のほうではない。劇画。日本中のラーメン屋の本棚を席巻し、沈黙の艦隊と共にないラーメン屋はもはやラーメン屋ではないとまで言わしめた(←おれに)一時代の金字塔のひとつ。その愛蔵版。おもたい。鈍器にするには柔らかい。積めば紙レンガにできそう。Tから借りて読んだ。

なんとしても感じ入らざるをえないのは、劇画という表現についてだ。本作は、なにかいろいろ大事なことを言ってそうでいて実はなにも言ってない。結果として辻褄は合っている気がするがそう感じられるとしても偶然に過ぎないと思う。見得とハッタリが劇画のルールだ。それがまるで実体を伴った表現であるかのように感じられるとすれば、それこそ作者の技量や力量にほかならない。ここから汲み取れるものは「劇画表現」それ自体以外にはなにもない。

潜水艦とか核兵器とか国際政治とか、そういうのはほんとどうでもよかったんじゃないかと推測する。どうでもよかったっていうと語弊はあるが、そうしたものはやはり外殻に過ぎず本質でない気がする。本質は外殻によって形作られるものだから外殻を軽視するつもりはないが、交換不可能の一線の内側にあるものではなかろうと思う。ものすごいものを背負ったキャラクタたちが次々とあらわれてそれぞれにこれ以上ないという大見得を切る、それにふさわしい大舞台として用意された。それよりふさわしい大舞台があったなら、沈黙の艦隊沈黙の艦隊でなくともよかっただろうと思う。その場かぎりの大法螺合戦、ハッタリの一大博覧会だ。A が大見得を切ってみせれば B がそれを受けたさらにデカい見得を切り返す、その際に B は A という格に関して「こいつはこうだ」と価値を付加する、そうすると次に A が登場する頃には B の付加した価値が既成の事実であったかのように自然と A のものになっている、そういうことが本当によくある。というよりはほとんど全てがこの調子。全キャラクタが役者としての自覚を持ち、それぞれの見得を否定することなく、むしろそれらを踏まえ吸収してどんどんでかくなっていく。「イエスかノーか」と問われたときにイエスやノーで答えるやつは二流だ。質問に対しては回答でなく表明として応える。単純な受けと応えはインフレに寄与しないからだ。相手のために、ひろがってゆかないただの答えなどは用意しない、自分を表明し、ひいては舞台をさらに拡大させる手段として、むしろ相手の質問を利用するのだ。なにか深慮遠謀とかがあるわけない、準備された考証や裏打ちなどない、あっても間に合わせの後付けだ、こいつらは単に自分のキャラクタ可能性にありうる最もかっこいいシーン・表情・発言を選択しているだけだ、そして劇画においてかっこいいは完全に正しい、ゆえに彼らのハッタリはまるで、ハッタリではなくなにか背負うもののある実体がその背後に存在していつかのようにも見える、そういう仕組みだ、間違いない。

本作は週刊連載であったことを忘れてはならない。連載で読んでおもしろく、単行本で読んでもおもしろい漫画が一流だと思う。一話一話できちんと見得とハッタリとヒキがあり、いつまでもオチをつけずにそれを引き延ばし、むしろ延ばすだけでなく流れの中から見繕った材料で更なる大舞台をどんどんでっちあげてゆき、それがさもあたりまえであるかのような顔をした連中がふさわしい歩幅で闊歩し、次々と即席で巨大な世界観をぶちあげてゆく。次週がどうなるか、次巻がどうなるか、そんなことを考えて描いたり読んだりしていて楽しめる漫画じゃないと思う。ただ現在見ているページがおもしろいか否か、それだけだ。ただしそれは以前とも以降とも連携しており、時空連続体として取りうる範囲内で最適の展開が選択されるよう適切に紙面をコントロールするのが劇画家の職分だ。それはようするにライブでありキャッチボールだ。人間が描いているから、人間を相手に投げるボールだから、人間のように感じられる。まったく違うものなら、まったく違ったものだろう。沈黙の艦隊はだから、読者の形をしている漫画といえるだろう。中身は、中身を「ある」と仮定する立場の人間が居なければ、ない。そしてそれがあるというなら、受け取る側によってどのような形でも取るだろう。おもしろいかもしれないし、よくわからないかもしれないし、つまらないかもしれないし、紙レンガかもしれない。すくなくともラーメン屋との相性は当時抜群だった。これは重要なポイントだ。世界市民の投票所としてデミルは日本全国津々浦々にあるラーメン屋を指定すべきだった。そうしていれば海江田四郎はあらゆる障害を超越して世界の王になっただろう。いやそれではまただめなのだ。それが最良のおもしろさであるとは判断できない。おもしろくないものは、劇画的とはいえない。そういうあたりまえのことがよくわかる漫画として、沈黙の艦隊はやはりすごいんだなあと思う。二十一世紀人類に読む価値のある作品かどうかは、わからないが。

あとは細かいオタ話になるが、

  • これだけの長編であるのに女子供がまったくと言っていいほど出てこない
    • 映画「大脱走」(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20030910#p1)といっしょ。男しか出てこなくても、軍ものの場合あんま違和感を感じにくい。
    • キャラクタ名まで(名前はともかく苗字について)推測可能な、モブ以上の登場人物として認識可能の女キャラは 1 人だけ、海江田の妻(?)、登場は 2 ページのみ。子供については 2 人。ベネットの息子と海江田の息子。ACN のコールセンターで視聴者からの電話を受けてる職員さえ全員男だったのは笑った。たぶん、電話の向こうの試聴者も、全員が男であったのに違いない。
    • ロマン感覚とでもいうような感じ方のうちの、男にしか共有不能な部分に、かなりの比重を預けているかんじのストーリーかなあと思うので、女を入れてしまうと、破綻というよりは不成立なおはなしになってしまうからかもしれない。
    • 女は居ないが「女房役の男」なら出てくる。
    • 概念としては存在を感じさせた女性格を強いて挙げるとすれば、イギリス女王くらいか。
  • ラフスケッチ集がおもしろい
    • 確か単行本では後半くらいから巻末に収録されていたラフスケッチ集が、愛蔵版では11 巻の最後にまとめられているのだが、これがほんとまあ作者自身によるキャラクタ語りというか、見方によっては文字通りの自画自賛ともとれる内容で、しかしそこいらへんに嫌味みたいなものを感じさせないところがおもしろい。
    • つまりこれってそうした自意識の発散ではなくて、どちらかというと「漫画家をやってるかわぐちかいじ氏というひとりのおっさんの、自分の仕事に関する与太話」なのだ。こーいうノリがアリになっちゃっててしかもそれで読んでてべつに不快じゃないというのはおもしろい。話が飛ぶけど「プロジェクトX」とか「ガイアの夜明け」とか、ああいった企業ドラマを「オヤジ番組」っていうけど、それと同様に沈黙の艦隊も正しく「オヤジ漫画」をやってるんだなあというかんじ。

というあたりも見どころか。