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web 日記の近未来にある統一化と多様化の闘争の妄想

書こうとするとどうせすごく長くなっちゃうよなーと思ったら案の定以上に長くなった。もうだめだ。まとめたり削ったりする工程を入れればいいんだけど日記でそんなことやるのは間違いだと思う。時と場所をごっちゃにするとこういうことになるけどそれをするための場所と時なんだしなあ。悩ま椎造。

「Afternoon*tea」(http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Cosmos/2904/)というサイトの絵日記(http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Cosmos/2904/frameDIALY.htm)がおもしろかった。この日記がおれにとっておもしろく感じられる理由は、その内容にある「ふつうの日記っぽさ」もさることながら、その手法にこそ大きく求められるだろう。つまり、絵日記だ。

絵日記、その絵と文字は当然のことながら手書きとなる。手法は問わない。紙に描いてスキャニングしてもいいし、PDA のお絵描きツールやタブレット PC からガリガリ描いたものを転送してもいいだろうし、部屋の PC でマウスなりタブレットを使ってドロー or レタッチ系のツールで描いたものをアップロードしてもいいし、web 上にあるお絵描き掲示板サービスを利用するのもありだろう。

絵日記は、ただそれだけでユニークな(独特の)日記ということで、ふつうにテキストでやっている日記よりもはるかに大きなアドバンテージを持っているとおもう。文面としてまったく同じ内容がふたつ以上の絵日記サイトに描かれていたとしても、そこに上がってくる日記は必ずどれも独特の異なった内容となるからだ。筆跡違うからね。それは基礎的な個性とでもいうべきもので、そうした個性の感じられる web 日記を眺めるのは当然楽しい。無個性な日記は似たようなものの中から一日一つでも見れば十分(つまり最悪自分の日記を一日一回書けば十分ということ)だが、それが他人の個性から出たものだと一目でわかる日記なら、ひとつ見るだけでも楽しいし、いくつもよこに並べて眺めて過ごしてもそれぞれに楽しい。あーこんなにたくさん同時性の中にある人間が居てそれぞれに発信しているありさまであることよ、という。

ここで書いている絵日記というものにはつまり、「絵」が含まれていなくても構わないということだ。絵日記においてはテキスト、字もグラフィカルなものとして表現されるので、字日記であろうとそれは絵日記であるのと変わらない。ただでさえ日本の漫画文化は記号の解釈能を培うので、そこから逆算しておれは手書きの字日記を絵日記的に読むことができるだろう。ポイントで一こや二こくらい絵だか字だかその中間だかわからないようなものがあっても構わないし、途中から絵になったり字になったりするのも OK だし、すみっこのあたりに適当に描いてあるような、ふつうのテキスト日記であればなんの意味も持たない装飾のようなものでもそれが意味を持つ。

手で描けばなにもかもいっしょくたにできるのだ。現在ふつうにあるような、「これは表題」「これは本文」「これは画像」「これは日付」みたいなコンテンツの取り扱いに関する区別が曖昧っていうか、それをする必要がない。ごちゃごちゃ。ロウとカオスのうちの後者。人間は前者でもあり後者でもある。

自分しか持っていないものをあたりまえに出すという絵日記の単純な魅力。そういえば人間にはこんなこともできたんだよな、なんでいままでやってなかったんだろ、それはやっぱりまだまだ PC でできることが限られていて、そして用意された機能に関して一面的にその使い方が普及していった(普及された)経緯があるからだろうけど、今後パワーも帯域も上がっていけば、より自然で当然で単純の発信が増えていったりもするんだろうか。とか。

余談になるが、現在でも手書き絵(字)日記は俳優のひととか歌手のひととかのページなどではそれなりに見ることができるような気がする。そういうページは大抵更新頻度が低いので「日記」というほど頻繁な更新はないけど。たとえば窪塚洋介氏のメッセージのページ(http://www.infini-inc.net/infiniFiles/mem_File/ky_fmes.html)などもそう。テキストは心っていうのか思考とか思想とか、部位でいうと脳みそからそれが文章として表現されるまでの過程にある微妙なノイズやニュアンスをまとめてキャンセルする性質があるので、たぶんそういう画一化や透明化に対する感性を、表現活動をやっているようなひとは強めに持っているんだろうなと思う。

手書きってことはその字を書いたペンがあり、それを握っている指があり、手があり、手首があり、ひじが、腕が、肩があって、そうやって五体にひろがり、つまるところ字は肉体を保障する。役者や歌手は精神をもって表現しているわけではなくてその肉をもって表現する商売なわけだから、自分の肉体感みたいなものは、ふつうのひとより大事にする傾向が強いんじゃないだろうか。この脳みそあってのおれではあるがそのこの五体でそれを表明してこそのおれでもあるぞ、みたいな。それはリアリズムというものだ。普通のひとに言い換えれば「結婚の報告とか親族の挨拶とか、大切な気持ちはやっぱり手紙や肉声で」みたいなのと通じる。そういうのを日常化させた状態と言えるのかもしれない。精神と時の部屋で一年間スーパーサイヤ人続けたのでおれの感性は最強に強まってます!とか。なんだか書いててよくわからなくなってきた。

まあしかし、特殊な商売をやってるひとの日記だけじゃなくてあたりまえに普通の商売やって生きてるひとの日記もおれは読みたいから、感性を鋭化させずともみんな自然と絵(字)日記をポコポコ描いてアップロードしちまうよみたいな時代になってくれると楽しいと思う。

でも絵(字)日記系のページってなかなか普及しない。なんでだ。思ったほどスキャナとかタブレットとかスタイラスとかそういった道具が普及していないので PC 上で手書きのデータを扱うっていうやりかたがまだまだ簡単じゃないっていうことなのか。というより自分の筆跡を(手書きである以上当然だけど)ネットで公開するっていうのがちょっと不安だーという部分も大きいのかな。「絵日記なら絵を描かなきゃいけない気分」ってのもでかいか、ふつう自分の絵に自信のあるひとはそう居ないだろうから、字より絵を出すほうを恥ずかしがる傾向ってのは確かにある。

あとは手で描くっていう習慣を PC を使うっていう習慣と同列に捉えることのできるひとが、いはゆる「絵描きのひと」以外には案外少ないっていうこともあるかもしれない。PC で、ネットでなにかやる場合、それは「キーボードで」というのがふつうな考えなのかもしれない。キーボードで手書きするってのは、確かにそれは発想が違う。テキストベーーーーース。

絵(字)日記が普及するためには「絵(字)日記を更新するのが、テキストで日記を更新するのと同等かそれ以上に簡単になる」必要があるだろう。現在でもたぶんやりかたによっては既にキーボードとマウスでジャカジャカやってるよりサラサラ描いてガーっと処理してポチっとアップロードしたほうが速いみたいな方法はあると思う。

うーむ、おれ自身が「絵(字)日記のほうがいいや」と思うためにはどれくらいの環境が必要かな。

  • ハード
  • ソフト
    • ベクター(結局swfとかになっちゃうか?)で最終出力が可能なドロー系ツール。ラスタで絵だと環境ごとの解像度問題とかで今後はいろいろ面倒なことになるような気がするし一応。ベクターが苦手な絵描きのひと(塗り系のひとに多そう)とか向けには解像度固定しちまえば大丈夫か?
    • (swfを使った静止画の(=絵日記的に応用可能そうな)絵としては、たとえば森野あるじ氏のイラスト(swf→http://www.rzconsent.com/web3/omake/cg/fl/yurima03.swf)などがある。swfなので拡縮自在、ということはこういう形式で出力すれば環境による解像度差の影響を受けない)
    • 描きながらハイパーリンクタグを埋め込めるweb向けの編集機能(レイヤとかオブジェクトを指定してURLを入力したら出力時にリンク成形してくれるみたいなの)。↑の「ベクタorラスタ」の件と絡めて、「リンク込みのswfか、もしくは画像一枚&イメージマップのタグ類込みのHTMLか」の選択式になってるといいのかも。
    • (イメージマップをゴリゴリ使った手書きページの例としては、最近だと「まぐまぐ」トップページのエイプリルフールネタ(http://kengo.preston-net.com/archives/000535.shtml)などがあった。要するにああいうのが手軽に作れりゃいいんだけど、相当めんどくさかったんじゃないかと思う)
    • できあがったらボタン一発で指定したサーバにアップロードできる機能
    • (ていうかそういうものがjavaとかでwebに置いてあるとさらに便利よね。絵日記に絵レスとか。しぃお絵描きのさらに凄い版みたいなのか?)

とかになるか。

基本的に現在ある仕組みを利用するだけでも可能なもののはずだけど、それをするために要求されるユーザ側の手間隙が忌避されてるかんじなので、そこんとこをうまい具合に削るために道具側が血と汗を流す必要があるようなっていうか。…そうなるために周辺に必要な環境とか機能とか考えてたら頭痛くなってきた。基本的には Macromedia Flash から機能を減らしたり増やしたりすればけっこういいかんじの日記専用ツールみたいなんが出来上がる妄想だが…(Macromedia 社が BLOGGER 社(Google 社?)相手に「てめぇらでっかい顧客に向けて WEBLOG とかかっこいいこといってるけど、こちとらはちんまい個人向けに絵日記だぜえ」みたいなかんじでサービスおっぱじめたらおもしろいかもと無責任に思ったりした)。手間暇と金の問題に落ち着くか。

あーあとたとえば、たぶん携帯端末で絵日記を読む気分にはなれないよな解像度の問題で。携帯端末でネット見るってのがどうにかなってるのはテキストが環境に合わせてどうにでも成形できるからだし。携帯メディアの表示技術が進化しない限り(それもなんかめちゃくちゃ革新的なやつ)、結局絵日記はデスクトップ固定の文化にしかないような気が。テキストは「コンピュータのうえにのっけて大量に流通させるもの的」なスマートな思想とか概念のかたまりだから、その利便性と絵日記の扱いづらさの格差はどうやったってでかい。だからこそ絵日記の「人間っぽい個性的」たる部分が光ってるわけだけども。

で、さっきちょっと書いたけど BLOG っていうのが、これはけっこうこれから先いいんじゃないのみたいなかんじで徐々にひろがりつつあるかんじだけど、あれは絵日記と完全に逆の進化なわけだよな。というか絵(字)日記がほかのすべてのやりかたから逆行してるってだけか。手書き絵(字)日記はこれまでにあった web やコンピュータの進化の方向性に合わない種類のもので、単にそれらが十分以上に発達している現在があるためにそういう本来的ではなかった使い方をもする余地が生まれつつあるという話でしかないけど、BLOG というのは過去から現在に至る web の方向性に適合して順当によさげな機能をのっけたひとつのかたちだ。

たとえば BLOG は RSShttp://www.kanzaki.com/docs/sw/rss.html)によって、複数あるサイトの個別の記事群を外部から取りまとめたりするのが容易な点などがこの場合の利点として挙げられる(参考:http://artifact-jp.com/mt/archives/000214.html / http://artifact-jp.com/mt/archives/000216.html)。専用のビューアとか作って閲覧者側で相当自由に操作できたりもするようだ。情報にある共通項を既存フォーマット上にのっけてしまうことでその内容の流通を容易にし、結果として価値ある情報がスムーズに共有化できるようになるというその仕組み。便利だ。ということは、的確だ。

でも絵日記はそれができない。共通化できるフォーマットなどない(編集ツールとかでオブジェクト単位とかで指定可能にすればできないことはないだろうけど…)というか、そういう共通化とは逆の思想にある魅力が絵日記を支えるのであろうから、むしろ「共通化しないことが自然」とも思える(ほんとに流行らせるためにはどこかで妥協が必要だろう)。

絵日記は BLOG どころでなく、現在ある多くの web 日記群よりもさらに退行する。web 日記においてはそのコンテンツにおける「テキスト」「画像」すくなくともこの二つ、または「HTML」「CSS」の二つが区別されたが、絵日記のやり方はそうした区別を意に介さないだろう。内容のみを取り出して編集しで閲覧性を高めることのむずかしいメディア。

開放性と閉塞性にはそれぞれの魅力があるし、多数派が大勢を占めるのは当然としても少数派も自分で滅びを選ばない限りは生き延びるし小さくとも和やかで豊かなコミュニティだって作れるというのがネットの意味でもあると思うし、多数派と少数派は相互に干渉し影響しあうことでお互いを潤すこともできると思うので、それぞれのレベルと性格の多様なやりかたが繁栄すればそれが一番いいと思うんだけど。

まあ絵日記に対してアンテナみたいなものを作る場合、既存の web 巡回収集ツールみたいなもので対応は可能だろう。たとえば「前回取得時から変更・追加のあった外部参照ファイル(画像など)のみを取得してきてプレビューを表示するアンテナ」とか。サーバに置く場合には容量とか帯域とか以外にもいろいろ問題があるかもしれないけど、活用法は対絵日記に限らない(あたりまえか)。「jpg とか png や swf などでの絵日記」、または「mpg や mov などでの動画日記」、スタートレックオタやツインピークスオタなら一度は考えたことのあるだろう「wav や mp3、rm などによる音声日記」など。

でも収集したそれらは結局「そのものを全部見ないことには意味を成さない」ものの集まりなので、そういうやりかたによっても扱いが容易とはならない。人間の性のうち取り扱いの厄介な部類にある「個性」みたいな方向に特化しているわけだから、市場みたいにゴロゴロ並べて置いてみてもわからないし、意味がない。

あーあと RSS で思い出した。CNET JAPAN の「日本人にはBlogより日記」(http://japan.cnet.com/news/maker/story/0,2000047861,20053530,00.htm)、はてなの人気に迫るという記事。おれの中での BLOG に対する抵抗感は、たぶんそれが RSS にのっかってるという点にも集約される気がする(ほかにもあるんだけどまあ。トピックの編集が容易な点とか。便利なんだけど、そんな便利な機能があるとそれはそれでちょっといやかなみたいなのとか)。おれは自分の中でルールを作ってそれを守ったり破ったりするのが好きだけど、世間のルールを多少改修して自分に対して適用するっていうのがあまり好きじゃない。結果を見れば両者はほとんど同じものになるはずだと思うんだけど、その導入から適用の過程に違和感を覚えてしまうのだ。これがガイジンと日本人の違いか。恥による自制装置と誇りによる自制装置の価値観差か。

でもたぶんアメリカ人とかでも RSS に対しておれの持ってるそれと似た抵抗感を感じるひとはまあそれなりには居るんじゃないかと、適当にっていうか気楽な気持ちで考えたりもしている。BLOG は、HTML だろうと CSS だろうと更新だろうと RSS だろうと閲覧だろうと編集だろうと、書く側にも読む側にも様々にあるめんどくさそうなことを自動化して楽にやりましょうというものなんだから、たとえば RSS なんていう「なにそれ」みたいなのはサービスのついでにのっかってきたもので、そのことをユーザが導入時から自覚しておく必要がないからだ。

だからそのへんの仕組みに対して全然無自覚なまま自動的に、その仕組みに入っちゃったひとだって結構居るんじゃないかなと。よくわかんないけどついてたからしばらく使ってみて、なんだこれ便利じゃん知らなかったよみたいな。一度使ってしまえばあとは便利さが先立つので抵抗感とかなんとか意識することもないわけで、なら案外改めて「RSS ってどうよ?」と聞いてみたら「よくよく考えてみたらちょっとヤかもね」とか答えるひとも居るかもしれない。程度の考え。