機械 vs 人類
今週から来週くらいまで特になにを買った覚えもないのに超ドレッドノート級に金がなくて正直言ってちょっとやばいんだけど、さっき自販機でジュース買ったらおつりの 880 円をまとめて下水溝のすきまに落としてしまって目先が真っ暗になった。もともと暗かった。夜だし。
STG を板垣恵介氏風にカテゴライズするなら、たとえば KONAMI「グラディウス」や TREASURE のレイシルとか斑鳩とかあのへんは中国拳法のような STG と言うことができる。一見して絶望的に見える難度も、基礎の学習と練習による応用、総合的な技術の修練によっていずれ当たり前にクリアできるようになり、才覚がなくともノーコンティニュークリアへの道は必ず開けるようになっている(いや斑鳩はちょっとむずかしいかもしれないが)。弱い者でもあきらめずに頑張ればいずれ強さを得ることのできる学問。才覚があるならさらにそこから先へも至ることができるだろう。そういうゲームには確かな希望がある。希望のあるゲームは、楽しい。簡単じゃないが、簡単じゃないからこそ獲得できたときの喜びもひとしおだ。
では cave「怒首領蜂 大往生」はどうか。あれはたぶん極真空手のような STG だと思う。もちろん強くなるためには学習や修練が必要だが、しかしそうした投資を(プレイ内容の充実だけでなく)クリアまでつなげられるのは「もともと強い者」に限られる。弱い者も頑張れば戦闘の空気を吸うことができるが、しかし本質的には強い者が最強を得るためのステージとして、それはあるように感じる。こうしたゲームには価値観を巡る論争が生まれやすい。つまり「クリアすることが楽しいのか、プレイするだけで十分なのか」。おそらく大往生に投資するひとたちの中で自力でエンディング(二周目真ボス)を拝める人間はそう多くない。クリアできなくとも楽しむことはできる。とはいえ一方でクリアすることでも楽しんでいる人間が居る。ジレンマが生まれる。しかしそこに働く論理はきわめてシンプルだ。クリアできるのは、強いから。
そしてこういうシンプルさには確かな魅力がある。どんな弾幕にも避け方はあるが、その避け方を使いこなし続けることができるか否かで容赦なくふるい落とされる。これほどわかりやすい現実は滅多にあるものじゃない。だから大往生は楽しい。楽しいゲームは、いいゲームと言い得る。