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プレイ可能&クリア不可能のゲームに投じる 100 円玉

で、そこで 100 円玉のはなしだ。おれが斑鳩にコインいっこいれるとき、その 100 円玉の向こうにいずれ斑鳩をワンコインクリアするおれを思い描くので、コインは完全におれのために投入するのだが、おれが大往生に 100 円を投入するときその内訳は単純ではないだろうと自分で思う。おれは最初から大往生をワンコインクリアする自分を想定していない。

おれはこのゲームをクリアできない。しかしおれじゃない別の誰かがクリアするだろう。だからこの 100 円玉は、その「おれじゃない誰かのクリアのため」のものでもあるような気がする。おれはだめだった、おれの動体視力や反射神経の平均値では逆立ちしたって追いつかない、そういうのは年齢でも落ちていくし、あきらめた、しかし、どこの誰とも知らんし興味もないが、おまえにならおれにできないことがやれるだろう、べつに応援するつもりもないし結局 100 円玉は自分のプレイのためにしか投入しないわけだが、いずれクリアしてみせろ人類、みたいな気分。おれ vs 大往生という構図の中にはおれの死と敗北(との経過と結果の快楽)しか存在しないが、「おれじゃない誰か」を含めてしまえば(結局おれは死んで敗北するので関係を持つことができないにせよ)一応構図の中にクリアという単語を含めることはできる、と分析できるので、んじゃおれはそんな代償行為までしてクリアへの願望を捨てきれないのかみたいな話ということであり、それはつまり諦めの言い換えにすぎないんだけど。いやでもそこまでドロドロしてるわけでもないんだよな。

賽銭でも投げてるような気分とかが近いのかな。それとも、すごい勝負の場に立ち会いたいという無責任な参加意識か。たとえば K-1 のチケットとかは、ふつう「自分が戦うため」に買うわけじゃなくて「すごい連中の勝負をその目で見る」ために買うわけだけど、それと同じようなもの?いずれ未曾有の決戦が繰り広げられることになるはずの、大往生の空気を吸う権利 100 円ぶん。

似たような話だが大往生の攻略 DVD を見ているとき、なんとなく人工知能 vs 人間のチェス対戦をながめているような気分になった。「また機械 vs 人類の最終決戦がやって来ましたねえ」「今回はどうでしょうか?人類、勝てますかね」「いやー今度の瞬殺無音緋蜂はもう完全に狂ってますからね。気化爆弾で弾幕とか張られたら絶対死にますし。いくらなんでも勝てないでしょう。私は次回作での勝利に期待しておきますよ」みたいな。