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新製品を買ってもうれしくない、ソーシャルゲーム、マルチアカウント、(元)facebook、VR

MacbookiPhone を刷新したわけだがまったくワクワク感といったものはない。これまで使っていた製品の延長線で、しかもアカウントを移行できてしまうので。アカウント移行は良し悪しだ。新しいガジェットを買うというのは、新しいことができることよりも、これまでできていたことができなくなる体験だったと思う。まっさらの環境にセットアップしていく作業をたのしむ的な…みたいなこと思ってたら、iPhone のほうはいいとして、Macbook のほうは旧型がオンボロになりすぎていて、データ移行に失敗した…。でちょっと考えたけど「10 年以上経ってる環境をがんばって移行してもしょーもないだろ」としか思えなくなって、別マシンとして登録していちから環境構築することにした。セットアップたのしー。いやべつにそんなたのしくはないが。10 年前からあるようなツールやサービスが、いまだに生きてることが多くて、改めて驚かされるよな。代わり映えのしなさというか。

で思ったのが、この「失うものはない一方で去勢されていくかんじ」はコンソールゲームサービス(もはやコンソールは「ゲーム機」という括りではなくなったな)の後方互換とか、ソシャゲの「どのアクションも無駄にならない(が作業効率には差が出る)」みたいなのに通じていて、総じてなにかを停滞させ、去勢され、老化、というか加齢適性を強化させられているような気持ちになった。まあそんなようなことを書いたコラム、もう 7,8 年前にはどこかで読んだような気がするけど。これかー。このかんじかーと、いまさら改まって腑に落ちた。あなたのたいせつな時間的金銭的情報的資産を、なるべくロスなく継承します、というのは、ありがたいようでいていつまでも過去を押し付けられているようでいて気だるい。おれたちは自分の望む以上の連続性を、それとわからぬまま求めるよう誘導されていやしないか。棺桶をひきずりながら歩いてるんじゃないのか。

で思ったのが、長年言われている(と思うけどちゃんと読んでないからいまどきはもう言われていないのかもしれない)けどもちゃんと観測できないので実際どんなふうか全然わからん「若者は Twitter を大量のマルチアカウントで利用するのが当たり前」みたいな話で。おれも長年常時複数のアカウントを使っているので(というかアカウントを作るときweb サービス毎に ID を基本バラバラにしていて、でも最近はサービス間をひとつのアカウントで乗り入れできるようになってるから、結果同じ web サービスを複数のアカウントで使ってるような状態になりがち)、若者!仲間だな!と勝手にシンパシーを感じているのだが、いやとくに感じていないが、感じられても困るだろうし…。まあそれはおいて、複数のアカウントを常時併用するというのは「ある程度以上のデータ移行を拒否する」という意味になる気がして、老化加速の流れへのカウンターになってるのかもしれないな本能的に、と思ってちょっと心強いような気持ちになった。揮発していく一瞬の表層も、失われない過去も、等しくヒトの為せるワザであることに違いない。消えていい。なくなったりはしない。いやなくなるんだけど。起きたことは起きたのだ、ということに違いはない。

で思ったのが、なんでこんな連想してんだおれはとその根っこを辿ってくと、むかーしのインターネットで流行った匿名インターネット vs 実名インターネット、その中間領域の顕名インターネット、みたいな話題についての記憶に行き当たって、かんたんに言えば実名インターネットは「ありとあらゆる生命活動をひとつのアカウントに集約させ全力で生きねば、人生を豊かに輝かせるためには人間の寿命は短い」ということで、そしておれも(ある意味いまだに)加担しているアンチ実名インターネット側は「アカウント毎に時間を分配することで個々の寿命を薄めてしまうとしても、それでも自分に内在する複数のキャラクタを、ある程度の連続性をもって個々に表出させうる場を確保していくことは、一度しかない人生で複数の人生を擬似的にでも生きているのに近く、こちらのほうが体験として豊かではないか」という可能性側にベットしていたんだと思っている。まあ昔話だ。

で思ったのが、これの最新バージョンのトピック…というほど新しくももはやないけど、あれよねなんか VRChat とかすごい人気じゃないの近年。なにせ 12 年もぱそこん買い換えなかったレベルの人間なので、たまにニュースの見出しで見る程度で、全然知らんけど。ちょっと前にはバ美肉みたいな用語もあったよね。「自分じゃない自分になれる」の次元を一個あげたというか。中年といえば自我や自意識もだいぶブヨブヨ曖昧になってくる年頃なので、さすがのおれといえども美美しく繊細なアバターとか纏えば人間性がよくなったりするんだろうか…みたいなことを考えなくはない。完全に違う人生がそこには拓けている…のかもしれない。

で思ったのが、そうした「違う自分でもあれる」の次元を拡げた VR の世界にまっしぐらで突っ込んでってるのが、実名インターネットの権化みたいな会社である元 facebook 現 Meta 社っての、なんなんだろね皮肉なのか。Meta 社はメタバースでも実名インターネット路線は捨てないでしょ結局。アバターなんてのはテクノロジがじゅうぶんでない過渡期のお茶濁しなんだろ。実名インターネット路線を捨てないままアバターに屈することがあるとすれば、それは逆に「人間を捨てて、アバターにこそ全人生を集約する」というふうにしかありえないと思うんだけど、そこまでいく気あるんだろうか。あるといいね。あったらおもしろいかもね。

みたいなことをボンヤリ思った。