最近のインターネット
- 利己的であることって体力要るし面倒なので、「それがなくなったら困るけど、なくなるようなら仕方ない(緩やかに死ぬ)」みたいな態度を選ぶってのは、おれにとってはだいぶリアリティのある話なんだけども。
- そりゃおれも死にたくないに決まってるんだけど、「死にたくない!」て暴れはじめるのって崖っぷちに足が掛かってからとかもうだいぶ手遅れになってからで、「あーこの先にはもう断崖しかねえなー」くらいのボンヤリとした認識だとまだ本能的恐怖に追いまくられたりしないんだよね。そういう鈍感さで、おれみたいな民衆は戦争とかにも引っ張られていくと思うんで「自分を不利にする選択に賛成するわけない」はお利口すぎやと思うんよね。もっと考えなしに「咄嗟に切り抜けた結果」だけでどうにか生きているみたいな生存感覚なのではないか。
- 所詮逃れえぬ本能的恐怖なんだったら、土壇場でだけ見苦しくして、それ以外の時間帯はのどかに過ごせばええやん、みたいな論法もないではなかろう感?突き詰めれば物心ついた瞬間「あっ!おれいつか寿命で死ぬ!こわい!」てなるべきみたいなかんじになって、しかもそれを当然のこととして人生設計ガーみたいなザマになり、救いは来世か子や孫という話になるよな。ウンザリだ。どこかで絶望するにしても、その時間はなるべく短いほうがいい。
- 最近、Girl's Talk を見るのがなんか重たくなってきた…面倒てんじゃなくて、わけもなく重い…。あと GT Blog のイイねにあたるボタンの「共鳴!」てのがなんかいい。共鳴のポーズとかとりたくなる。べつにまったく共鳴はしていない。
- 街でイケメン見かけた冴えないひとがイケメンを憎むようになるように、ネットで絵がうまいひとを見た冴えないひとが絵のうまいインターネッターを憎む、というのは、なるほどねえってかんじだがそれ以上の感想がまったくない。というあたりから「弱者救済のためには [考察] タグを笑ってはいけない」というらへんが立ち上がってくるんだがが。
- あと基本的なことだけど「絵師」て「絵が描けないと自認してるひとからの、あいつは絵が描けると思ってる他人への呼称」よね。「うp主」とかも「それやんないひとがやってるひとを呼ぶ際の名前」ね。つまり出自は「リア充」と一緒。どうにでも羨望や崇拝や嫉妬、やっかみやバッシングの対象として映り変わる。