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「どうせモテないから◯◯しようぜ」関連

非モテ関連でたまに目にする「どうせモテないから◯◯しようぜ」てフレーズがイヤだ。その言い様の背景には、(○○に当てはまる)オタク趣味が自体目的化していないという未熟がある。○○をやるという行為を前提的に「モテるかモテないか」で判定する態度。「モテようがモテまいがお前は◯◯しろよ」というのがオタクの立場だ。○○が好きなオタなら、それを道具として使う手付きは容認しない。さっそく脱線すると、ところで再三主張するように「女と付き合うためフィギュア捨てればオタク卒業〜」みたいな電車男エピソードは唾棄すべきものだ。第一に、たしかに現在のオタク趣味はモノを排除して成り立つものではないと思うが、モノを捨てるというイベントにオタクをやめるという決意を象徴させようとする映像 SF 的な感覚は文章 SF 感覚側の見地から雑すぎてニュアンスを潰すし、第二に「オタク趣味が好きだという感情は、誰かを好きだという感情と同軸ではないのにもかかわらず、誰かへの好きを追求するためにオタク趣味の追求を断念せざるをえないという状況が生じうるのは、人生の有限性から生じる不条理であり SF マインドを励起するとさえいえる(かもしれない)という儚くも切なく甘酸っぱいエレクトロニカ的心情が、非オタク的視線でいったら多分女とオタク趣味が普通に天秤にかかるような要素としてオタクに認識されているのであろうという誤解や、実際オタクを構成する山の裾野には誰かにモテないからオタク趣味をやっているという層もけっこう混じってんだろうなーという認識などというクソ事情と同居してしまうことにより、高原に咲く一輪の美しい "可能性の花" がみるみるドドメ色に染まっていくー!…ポイズン」みたいなアレがあったりして、まあ世の中というのはままならないものだ。でも多分ままなりすぎたらつまらんのだろうなと思った。じゃあ別にいいやと思った。そこにゲームバランスが存在するかぎりスペランカークソゲーではないので「おれがクリアできないからこのゲームはクソゲー」「おれが感動したからこのゲームは神ゲー」とかいう一人サラダ記念日は 1987 年にはポエミーだったが 00 年代には日常である。

…で、脱線から戻すと、「どうせモテないから◯◯しようぜ」というフレーズが生じるのは、ようするに非モテがオタクではないという事情によるのであって、オタクとしておれがそのフレーズを嫌悪するのは上記のように自明なのだが、その嫌悪感が「だからそんなフレーズは滅びろ」みたいな感情につながることはない。オタクであればもはや選ぶべきフレーズではないと思うが、まあ非モテはオタクじゃないんだから、そういうふうなジャンル消費をやってみてもいいだろう。というか、むしろおれは非モテの界隈での「どうせモテないから◯◯しようぜ」というフレーズは、有意に機能しているのだろうと判断していて。つまり「誰かにモテるようなことがない無趣味なひと」は無為に時間を使い潰すのみで(という意味では、とにかくやたらモテまくるタイプのひとは結構人生忙しいので、自分が意外と無趣味であることに気付くのが遅れたりもするだろう)、たぶん人生を持て余しているのだろうと判断できるから、じゃあなんか趣味を持とうよ、という草の根の互助活動的なものの象徴として、「どうせモテないから◯◯しようぜ」は評価できうるように思うのだ。モテることをきっかけにしてしかなにかをはじめられない、けどモテることがない、からなにもやらないうちに結構時間が経っちゃったなー、みたいな蟻の巣の底。

どうせモテないから○○をしはじめたひとの中からも、やがて○○するために○○する境地に至り、さらにその先へ進んでいるひとも居るだろう。そうなればそのひとはもう別に非モテに帰属しなくてもよくなってるはずだが、まあネットの帰属は要不要で選ぶものではないので、別の話か。