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池袋過ぎたってこの愛は永遠で、円環無限に果てはなく、一つの有機的な機関であり且つ一つの永久運動装置だがその実体は空洞なり。なーりー。

Berryz 工房の『スッペシャルジェネレ〜ション』の歌詞で「池袋過ぎたって この愛はえ・い・え・ん」というフレーズがあるんですけど、これほどまでに永遠を感じさせない永遠って言葉はないと言えるぐらい空虚なんですよね。恐らくカップルが電車に乗ってて、どっちかが帰宅するために池袋駅で降りるというような話なんでしょうけど、

おれは数年間に一瞬だけアイドルオタになろうかと思い立ってみて、でもやっぱめんどいからやめた側の人間なので、その曲のことは知らないんだが、地方出身池袋オタとして歌詞の細かいところにだけ反応して言えば、そこにはもう一枚くらいは深い含意があるような気がしたので、ちょっとメモ。ポイントは「池袋過ぎたって」という「でも」のニュアンスだ。

  • 「池袋で片方が降りる」ではないと思ったんだよね。具体的にいうと渋谷駅から埼京線乗車、東京西部暮らしの彼氏とは新宿駅で別れ、埼玉県在住の彼女にとって池袋はただの通過駅。というのがおれの想定だ。
  • 普通の彼女は、彼氏と一緒に電車乗ってるときは笑顔だけど、彼氏が下車した駅以降は日常に還るのでデスマスクじゃろ?でも新宿で別れてもそのハッピーが池袋までは持続する、なぜなら若い埼玉県民である彼女にとって、池袋までは非日常だから(←より厳密には、池袋駅に到着する瞬間まで(=池袋未満)。池袋駅自体は埼玉県側のカテゴリ。埼玉県民にとっての東京カテゴリは目白駅まで)(なお、都民にとって池袋が埼玉県池袋市であることはほぼ共通認識ってことでいいと思うが、新宿民と渋谷民とかではさらに細かく沿線北上による文化的劣化に対する感覚の違いがあったりするらしいけどわからん!おまえらのセンス闘争は先端すぎてわからん!)。
  • …という認識のうえで、「ふつうなら池袋で醒める」「でも、池袋という山手線限界点を超えても持続するワクワク感の源がある」という二段構えが、この歌詞には織り込まれてるんじゃないか。それは相対性を超えたところにある心情、つまり愛だねと。

その他の池袋妄想としては、新海誠「塔のむこう」関連妄想(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20090518#p1)など。