matakimika@hatenadiary.jp

WELCOME TO MY HOME PAGE(Fake) ! LINK FREE ! Sorry, Japanese only. 私のホームページへようこそ!

クソタイ 3.0 座談会公開録音見学

クソタイ 3.0 公開録音

もはや話題としての新規性はほぼなくなっているが、はてな非モテ界隈の面子が集まりそうな公開収録があるとのことだったので参加した。意外なひとと話す機会を得ることができ、個人的には収穫だった。

  • あんまレジュメどおりには進行しなかった。というかほぼ雑談だけで終わってしまったような…。
  • 題目に「オタク対ボンクラと世代論」と書いてあったので、そこには興味があったのだけど、いまいち掘り下がっていなかったかんじかなー。というか事前予想として「岡田文脈に近いなんらかの用語「オタク」」vs「映画秘宝文脈での用語「ボンクラ」」みたいなのの話があるのかなと思っていたんだけど特にそういうのではなかったという。おれの場合の自己規定としてのオタクなりボンクラなりの素性は、オタクについては多分岡田文脈に近いんだけど特に教育を受けたわけではない我流(すくなくとも大塚文脈よりは周辺の影響を色濃く受けているはず、だけど岡田氏や大塚氏の著作などほとんど読んだことはない)、ボンクラについては自アン用語としての「ボンクラ」が基本でそこからこれもかなり意図的な独自解釈で発展(ほかの自アン民と「自アン的」や「自アン的ボンクラ」の定義はかなりズレてきているはずと思う)、映画秘宝とかは読んだことがないし(その読者コミュニティなど観察するかぎり)そこから受ける影響があまり良いものには思えないので、読んでみたいと思うこともない。
    • …と、そのようなアレだったんだけど、とりあえず「オタクでもサブカルでもないぼくたち」としての非モテ、の言い換えとしてのボンクラ、みたいな漠然とした定義以外とくになかったっぽい。
  • わりあい概念「スクールカースト」が自明のものであると信じて疑っていない側のひとに、べつにそんなものなかったとも言い得る側の視点を提示できた、のかどうかはわからんけど、会話できたのは良かった。まあべつに、それで互いの知見が拡がるとか、そのての効果は期待できないんだけど…(おれに「スクールカーストは自明である」と固く信じているひとの気持ちはわからんし、また「スクールカーストは自明である」と固く信じているひとがポジショントークを止めることはない)。

そのほか雑談。主に自分語り関連。

  • オタク限界集落的な話
    • なんかいまどきの大学生あたりのオタのひとはあんまそういう考え方をしていないっぽいのだけど、オタクはほっとけば自然とオタクでなくなる。まるで呼吸するように自然と気がついたらオタクになっていた、というような感覚によって、このままほっといてもオタクでありつづけるような幻想、なのかな。よくわからん。「勉強してオタクになった」側の視点でいえば、ほっといて死ぬまで自然とオタクで居続ける状況などありえん。生またときからオタクをやってきたわけではないのだから、死ぬ前にオタクでなくなるのは当然で、死ぬまでオタクをやりつづけるためには、相応の努力が必要で、それがあっても無理かもしれない。
    • 田舎から進学とか就職で都市部に出たことがあるオタなら気分として理解できると思う。オタクが自分のオタク年齢を維持するために必要なリソース量は(そのひとが「どういうオタクであるか」によって内容は変わるが)確かに存在する。オタクとしての寿命は、田舎よりも都会のほうが一般的に長い。時間の流れといったほうがいいかもしれない。それが都会は遅く、田舎は速いのだ。帰省して地元の学生時代のオタ友と同窓会などやってみれば、それは如実に体感できる。都市部で暮らす自分よりも明らかに、地元で暮らす彼らの「老け方」は早い。時間の差を体感することによって、自分の未来を見ることができる。都市部においても(田舎よりは緩慢だが)確かに時間は流れていて、そしてそれよりも早く、自分の肉体は衰えていく。肉体が衰えれば精神も衰え、あるいは肉体に順じて衰えない精神は妖怪化していく。
    • 人間が生まれながらに知ることを欲するというのは確からしい話だが、日々抱く興味関心の量が衰えていくのもまた経験的な事実だ。中には老いてなお盛んなひとも居るが、それは訓練の賜物というべきで、自然とそうなるためには無自覚に努力しつづけるタイプの素質が要る。なければ、自覚的な努力が必要。
    • オタクがオタクで居るために必要なのは「オタコンテンツの供給」「オタ友」の二つだと思っている。その状態の維持のためオタク共同体は有効だ。仲良しサークルというかな。自分にとって新鮮なオタコンテンツの情報やヒントがいつも手に入り、そしてそれを一緒に消費できる友達が居る。この状態が続けば、オタクはいつまでもオタクで居られる。が、長い目でこの状態の維持は結構むずかしい。シーンは変遷するので、鮮度の高いオタコンテンツに対して興味を維持しつづけるのは実はけっこう難度が高いし(感性の硬直化は分野越境をむずかしくするのだ)、おっさん化すると自然と同年代のオタ友は徐々に減っていき、また若オタとの接点も自然減少するわけなので、共同体は痩せ細る。入手できるコンテンツが減り、そして一緒に消費できる仲間も少なく、また共同体に新たに入ってくる者が居なくなったとき、「いつもの面子」はオタク限界集落になる。これは不可避の未来なので、だから考えるべきことは、いかにしてそうなるまでの時間を引き延ばし(つまり共同体内の人員流動性を確保したり、あるいは複数の共同体に所属してリスクを分散したり)、またそうなったあとの「リタイア後の人生」の豊かさを確保するか、というあたりになる。
    • 「全国どこに居てもオタクはオタクになる」と思っているが、オタクになったあと、つまり「オタクであることを維持するため」には地方よりも東京に居たほうが都合がいいと思っている。コンテンツが豊富で、共同体が多く、流動性が低くない。その状態は、若オタである時よりも、おっさんオタになってからのほうが「好都合」に思える。

とかなんとか。もうちょっと別のアングルから「オタクとしての自分を経営する」関連の話題も二次会でしゃべったと思うのだが、そっちはまた次の機会にでもメモる。