最近のインターネット - 地方東京問題関連
- オタ地方東京話なー、環境による「現在の趣味嗜好をそのまま維持することのむずかしさ」の話もあるけど、「現在の自分は環境によって作られ、そして環境によって変化していく」んだから、「オタク活動が満足にできない不満」よりは「自分自身がジワジワとオタクでなくなっていく」怖れの話もあるよね。ヤンキー DQN が全員柄だの文字入りで無地の服着てないのって、べつに「彼らがそういうの好きだから」でなく「そもそもその地域にはそういう服しか売ってないからそれ着てるだけ」だったりもして。柄シャツ以外の服買おうとしたらユニクロ着るしかないってのよくある。
- 己の興味がなくなっていく、情熱みたいなものが衰えていく、目を配らなくなっていく、みたいなこと自体に、注目することはかなり難しいから、余計に怖れが膨らむんじゃないか。この部分だけだとつまり「趣味でアンチエイジング」みたいな話に落ちちゃうけど。「上京組が帰省するたび地元のオタ友が減っていく寒気」みたいなのって、べつに「だから地方はオタク(自分)に優しくない」みたいな話に終わらなくて、現在さほどオタでもなくなった地元オタ友の姿が、「あのとき上京しなかった場合の自分の姿」とさほど違わないのであろうと確信するからなんだけど。
- 「いつのまにか新作ゲームを買わなくなっていた」「初音ミク楽曲をさほどいいと思わなくなっていた」みたいなときのチクリとした痛みみたいなの、若いうちは「飽きたわー」で済ませてもおけるんだけど、チクリがある瞬間にブスリとかズブリとか襲ってくるかんじ?
- やっぱ地方は生産するしかない、そして都会はより生産できる、というかんじになるな…。
- 田舎オタの一般感覚として「ある程度やり込んで、これ以上やりたいと思ったら、もうちょっとデカい町に出るしかない」てのあると思うんだけど。というか実際進学とかがそうなってるわけだけども。いやでもこれは「受験戦争の代償行為としてのオタク活動」みたいな史観に縛られすぎなんかなー。
- オタクとして寸詰まるのに、オタクの入り口に立つことはできる、というのは、オタクが都会からメディアを通して持ち込まれるもので、地産地消の特産品ではないからで、そして流通の都合で文脈みたいなものはガンガンぶった切られるので、受けてるばかりでは何処かで階段が歯抜けになって落ちる。もっとも、そういう欠落がコピーの劣化を促し、多様性ってやつを確保できるのかもだ。
- やっぱ田舎であれば偏狭にやりこんで、妖怪じじいになることを目的とする以外ないじゃないですかー。