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砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない

田中ロミオ「AURA 魔竜院光牙最後の闘い」から邪気眼が題材のひとつになっているラノベつながりということで、桜庭一樹砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」を読んだ。おもしろかったがこれは重たい。書ける感想はとくにない。強いて感想を書いとくと「…困る!」てかんじ。吉田アミ「サマースプリング」読んだときの「これは感想書けんな」感とかなり近い。オタである以前の個人として、身近なひとが地味にきつい状況だったり、極端にひどいことになったりしていれば、それにはそれなりの身の処し方があるわけだけど(怒ったり助けたり悲しんだり庇ったり傷付いたり)、お話とか自分のコミットできない領域で、そうしたきつめの状況が展開されてしまうと、読んでてどうしようもないんだよね。なんというか、「シートベルトでがんじがらめに縛り付けられた座席ごと、五階くらいの高さから投げ落とされている夢」を見ているようなかんじ。夢だから「ギャー!」てかんじではあるんだけどダメージとかも特になくて。痛みが伴わないのが逆に刺さるというか。あとおれ男だからなー。子供の頃は少年で、少年はいろんなことを気にしなくてもいい生き物として許容されているかんじがするので、そのような過去に照らして、少女のキャラクタに共感することができる気がしない。

…という話とまったく関係がないわけではないんだけど、ほかにもいろいろきっかけのあった話として、この 2,3 年漠然と考えるようになったことについて Twitter にメモした内容を、この機会にまとめておく。

  • そのひとの可処分リソースの少なさを想像すると、「○○が好きなワタシ」アピールに実践が伴っていないことは許せるという心理になった(例:「このひとやたら「○○が好きなワタシ」アピールをするわりに、オタ社会人として迷うような価格ではないはずの〇〇を買う金がポンと出てこないんだよな、不思議。…あ、このひと先日結婚してたのか、なるほど。じゃあ今まさに奥さんに首根っこと財布の紐を握られてどうしようもないんだろうなあ。そういう事情なら、むしろお小遣いやり繰りして相当頑張ってるといえそう」とか)。
  • 「余裕がないひとが余裕を夢見ることは責められぬ」あたりが根っこのひとつ、というかふたつ。物的な余裕のなさと、心的な余裕のなさ。で、最近ラノベをいくつか読んで「邪気眼を否定するな」というメッセージ性が強まってんのかなーという気分があって。それはたしかにそうだなと納得する部分もあって。
    • 実践の伴わない「○○が好きなワタシ」アピールって、余裕を夢見る「必死な」アクションだから、余裕からはむしろ遠ざかっていて(余裕は余裕の余剰としてしか生まれない)、それが傍目に見ていて気になるポイントなんだけど、でもそのひとの事情を考えるときの要点はそこじゃないってことなんだよね。先がどうとか振る舞いがどうとかと関係なく、「今、余裕がないこと」がそのひとには覆いかぶさっている。
  • ようするに「〇〇が好きなワタシ」アピール程度の邪気眼はイノセントじゃんという。
  • あと、余裕は気の持ちようでふくらんだりしぼんだりするものだけど、可能性のうち「選択の余地のなさ」の比率が高い状況が続くと抑圧される部分がかなりあると思うので、自己責任でガス抜きできる余地の大きい側からいえることはないというか。まあ自己責任で失敗したらそれはそれで余裕が物理的に尽きるんだけど…。
  • 物理的に保護されていると死ぬ心配はないんだけど、死ぬ心配がない状態だと生きるか死ぬかなんかより微差の戦いが気になるもので、可処分所得問題とかとかなり切実に絡んできて、さらに「暮らしに必要な基本出費」の額面の差は、可処分所得が小さいと深刻に影響するしで。

たぶん「ヴィレッジヴァンガードを批判してよいのは地方民だけ」問題とかとも微妙に関連しているのだが、接合部を掘る作業はかなり面倒。