ウェブサーフィン、インターネット波遊び
ネットで中立を保ちたければ、利害関係を持たないことだ。利害関係を持たないことと、立場を持たないことは、似ているが違う。さらにひろげると、立場をなくするための手っとり早い方法としての、そして案外それが不確実である、匿名化などの話にもつながっていくのかもしれないが余談。竹林の清談的なことは、立場を持たないことによって実現可能だが(≒クリアな議論は幽霊になることで行える)、立場を持たないことにだけ注意していると、いつのまにか生じてしまった利害関係に捕捉され、流れに巻き込まれてしまう。つまり、政治だ。
というかしかし、そもそも「中立を保ちたい」的な欲望って現代ではマイナーなのかもわからん。もっとなんか何でもいいから党派で争いたいのかもしれない。なにかがきっかけで党派ができ、次第に党派のための活動が増えていくという、まあ一般的な人生を退屈させないための知恵的なアレだ。これは「最初にネットに触れたとき、それがどういうメディアであったか」という問題と絡みそうだ。web 日記であったり、テキストサイトだったり、匿名掲示板だったり、個人ニュースサイトだったり、ブログだったり、SNS だったりするその形態によって、そのひとのネットに対する基本的なスタンスが規定されるという。ことをブログに限った場合の中立願望は、つまり集団から遠すぎず近すぎないあたりで孤立したいってことで、さらにいえば教室の隅っこの椅子取りゲームで、そんな悠長なことやっていたんではブロゴスフィアの中原にいつまでたってもリーチできないわけだし。夜のブロガーと昼のブロガー問題だ。もっと今は一般的に、みんな政治がやりたいのかもわからんね。そうでもないひともそれなりにいるはずだが、結局そういうひとは政治的にはいずれ動員される頭数として勘定可能だし。
「インターネットを通じて自分は得をしない」という作法は、ある種の美学であり、またリスク管理でもある。というあたりをもうちょっと掘り下げて解体していかないと、たとえば web 1.0 界隈の Amazon アフィリエイト問題とかは空気的に進展しなさそうだが…、実際進展してなさそうだ。細かくみればそうでもないのかもだが。強いて挙げればかーず SP とカトゆー家断絶の違いとかか。そういうときたとえば「俺ニュースだったらどうしただろうか」とか想像するが、いまひとつイメージが湧いてこない。案外そこいらへんで、natori 氏あたりはうまいスタンスを取っているような気がするのだが…って、考えがどうも自アン系に偏重していてよくないな。