おれが如何にして心配するのを止めてプリキュア 5 を愛するようになったか
おれがプリキュアおもしろいおもしろい言ってたら「おい、おまえプリキュアおもしろい言ってたけどべつにそんなおもしろくなかったぞ、同じ時間帯ならグレンラン見といたほうがよっぽど楽しいよバーロー、ところでポリフォニカの作画がイマイチであるという悲憤のやり場を如何せん」とかいっておれの平穏な暮らしに火種を持ち込もうとする不幸な事例が相次いでいて嘆かわしい。馬鹿かおまえアニメ見はじめて何年だと。アニメ漫画ゲームに青春のすべてを費やした必然としてなにも得るところのないおっさんにまで至ったのが我々の立場というものだ。エアコンのフィルタは取り外して掃除すれば綺麗になるが、煙草を吸い続けた肺の掃除はできないように、引き剥がすわけにもいかない目詰まりだらけの感受性を抱えた我々はもはやポンコツなのだ。にもかかわらずこれまた中途半端な俗性が邪魔をして、焦点の合ってない目でヨコ出し紀行とか ARIA とか眺めて暮らす方向性を選ぶこともなかった。だからこそ今プリキュア 5 なんだよまるでわかっちゃいねえよ。
とにかくにも言えるのは、プリキュアは見ていてハズレが少ないということだ。一年ちかくも続くシリーズのアニメで、すべてのエピソードが全力などということはない。どうやっても緩急は出てくる。というより、緩急のないシリーズなど退屈だ。気合が入ってる回がおもしろいのはむしろ当たり前。長期シリーズにおいては、気合を抜いた回の楽しみ方が肝要になる。まとめると、
- 気合の入っている回は、素直に楽しめ
- 気合の抜けている回は、かんたん作画に癒されろ
というのが、プリキュア鑑賞における態度だ。で、なんというかなーおれは最近わりと気合が入ってるほうの回はどうでもよくて、この気合が抜けている回のほうの味わいを噛み締めているようなところがある。見てると落ち着くのだあのアジア系の作画が。どこか懐かしいようでいて見たことのない顔。ジャンクなカルチャーであると限った話においても、絵はそれがうますぎるだけではダメなことなど漫画の世界では 10 年前に結論が出ている。アニメにおいても同様。いやそんな話がしたいんじゃない。描かれてある絵など上手いに越したことはない。基礎も重要だろう。文脈や品格がものをいうこともある。ただすべての絵柄に味わいがあることもまた普遍の事実だ。技能として修練されたもの。天与の才もあるだろう。平凡なカットに描き出された上手さとは別のなにか。それがおれの脳内で意外なサプライズを引き起こして気がついたら爆笑している。侮れないんだよな。京アニの次は TAP が来るよほんと。
このへんの話を書こうと思ったのが第九話放映の時点だったので(ズルズルと日記をサボりつづけて書くのが遅れてしまった)、画像は第九話「プリキュアがばれちゃった!?」のもの。もうねーこの回ゲラゲラ笑って 6,7 回見たよ。なにやってんだろうかねその時間にほかのアニメ見ろって話ではあるのだが。
- 新キャラ増子が青にインタビューしている中間のアホ面四人。空間の乱れが。
- 増子の決めポーズ見える通常立ち(台詞は普通に続いている)。
- 昭和の時代の「ひとさらい」のイメージ。
- 五人アホ面揃い踏み。なんともいえない味わいがあり見飽きない。飛んで逃げてきた赤と黄色&下から駆け上がってきた残り三人という合流図なんだけど…。
- このときやはり黄色のツラの味わいが深すぎる。ヘロっと巻いてる髪の毛先など神懸かっている。
- コワイナーを陽動する赤と黄色。赤がものすっごいスーパーマンポーズで「とうっ」と飛んで逃げている点に注目。黄色のほうも、やる気のありすぎる肘の角度が良い。
用語「かんたん作画」については下記参照。
TAP のみなさんの尽力を、見るひとはちゃんと見ているのだなあと思った日記。
- きみにとどけてれぱしー:プリキュア 5 12話