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成長と切断と再吸収

「昔「○○」という作品が好きだったんだけど、だんだん作者が馬鹿だと気づいてきて醒めた」は「(過去の)自分の馬鹿さに気付いて恥じた」の言い換えだよな。という話。

  • 問題の外部化というか、痛さの切断処理の一種だろう。「安い仕掛けに易々と騙されていた自分が痛い」ではなく「こんな安い仕掛けで客を引っ掛けようとする作者は馬鹿だ」という理解によってパージ。実際には「結局その安い仕掛けに引っ掛かっていた自分」自体は消せないのだが、まあそこは、人間にとって世界観は世界そのものと等しいことにより云々。
  • なんでもそうだが、痛みやショックに耐えられるようになるには強さなり時間なりが必要だから、そのような切断処理自体べつに悪いことではない(もちろん切断処理を経ず己の激痛と向き合って耐え抜く気概のあるオタは賞賛されるべきとして)。ただ、過去に切断した自分の痛さは、そのまま捨て置かずいずれは再び(その痛みに耐えられるくらいの強さを得たり、または十分に枯れて刺激値が低くなってから)自分の中に回収するようにしないと成長がない。ああいや、「オタとしての成長」とは違うのかも。「消費者としての円熟」とかそういうかんじか。
  • 切り捨てに慣れすぎると、切り捨てっぱなしでズルズルと生きていけてしまいもして、まあそればかりやっているというのも、それほど別に悪いことではない(アバカム覚えるまでアリアハンに居る自由)。オタは永遠を夢見ながらもどのみち終わりが来ることを知っている。

ちょっと立ち戻ってみる。

  • 一歩引いて考えれば、なにかを見たり聞いたり読んだり遊んだりしたときに「ピンとこなかった」場合、「ああ、じゃあおれはこの作品の客じゃなかったんだな」で済む話ではある。「適当な方角に向けて投げられた作品を、たまたま受け取った一人」としてなら、作品がよかろうが悪かろうがそれはそういうものでしかないはず。ただ、そのような受け取り方は情熱が欠けている「ように見える」ので、情熱たぎるホモソーシャル内部では批判の的にもなりがち。
  • 自分のためにその作品が存在している」に似た意識を持っているからこそ、消費者にとって(駄作の)作者は非難すべき存在となる(逆にいえば、そういう錯覚が傑作の作家に敬意を払わせもする)。作者とファンが親子関係に喩えられやすいのもこのへんと同根。
    • 親子関係に喩える場合でいうと、作者とファンのもっとも良い関係というのは「婚約者の親(作者)と自分(ファン)」というような関係をイメージするとうまくいくんでないかなと思っているが、まあこれも例え話の一例であって、そうあるべきというような話ではない。
  • こうした当事者意識は現役オタとして大事にしていかなきゃならない部分だと思うのだが、やはりそういう自分の手綱を操っていくことも楽しみのひとつだろう。
  • オタがオタ作品を消費するのに無駄ということはない(本筋とはズレるが、伝統的なオタによる作品消費が、それを「消費したくない」という願望に裏打ちされたものであることは忘れるべきでない)。どれほど僅かであろうと情報は必ず情報に影響を与える。自分の軌道要素の変化は観測すべきだし、ほとんど変わらなかったとしてもひとつひとつの作品に触れた時系は分析の材料になる(それが「その時々の自分の目にどう映るのか」が、ひるがえると「自分がどういう内実を伴いつつどこへ向かっているのか」のヒントになっている)。
    • 長くオタやっていくつもりなら、このへんの感覚は必須になると思っている(趣味の暮らしは「自分を楽しむ」要素とうまく併走できるかどうかにかかっている)。

ていうか、なんというか、「「作者像」を通してしか作品を解釈しようとしない人々」問題というのもあって、こっちのが厄介な気がするのだが、どうにもまとまらないので、このへんで一旦やめ。全容の把握からやりなおさないといけないな。このへん漠然としていて入口も出口もいっぱいあるからなあ。