耳をかける少女
先日アニメ版「時をかける少女」が TV 放送されたようで、その感想及び反応がネットにも流通していたが、それらのうち「明るい青春ドラマ的存在を見ると、自分の実青春とのコントラストによって死にたくなる」的な言説が一部はてなー界隈の耳目を集めていた、ようだ。既視感のある流れだ。記憶によれば、「耳をすませば」においてそのアングルは発明された(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20050517#p4)。一発目は芸で、作品といってもいいが、時かけを肴に行われるそれは、あまり創造的ではないなと思った。とはいえしかし、それらの言説に通底する抑圧は真なのだろうから、それら自体は新規性云々で片付けることができる種類の問題ではないのだろう。が、それについても、やっぱり「他人の人生だしなあ」といってしまえば個人的には片付くのであって、はてなーくらい他人の人生に興味関心のある界隈以外ではなかなか話題として増幅されることはないのだろう。
劇場公開当時にも、「たぶん「耳すまを見て自殺」的な語りは出てくるんだろうね」という話は出ていたのだ(記憶曖昧だが、「時をかける少女」を語る会(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20060902)らへんでもそのへん話した気がする)。しかし当時そういった反応は、思ったほどではなかったんだよな(なかったわけではない)。なぜかという原因の最大のものは、もちろん「時かけ映画を劇場まで見に行った人間がそれほど多くなかったから」だったろう。けど、そういうことじゃなしに、そのての反応が TV 放映時にようやく出てくるってのは、結局まあ「べつに興味がないものを、興味ないがゆえに受動的に見てしまうひと」の言説ってことよな、いいとか悪いとかではなく。というようなことを思った。元ネタの「耳をすませば」を見て自殺話だって、それが TV 放映されたときの反応だ。このへんの能動消費と受動消費とか、オタ的対作品姿勢の問題とかと絡めて考えると、結構掘り進められそうな気がしているんだけど、余裕がないので後日妄想。
あとはー、なんだ、その、「憂鬱」と「鬱病」に同じ「鬱」という漢字が使われているのは、自称メンヘルがカジュアル化した現代ネット社会ではわりと迷惑な前提だよなーと思った。