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最近の読書

魍魎の匣」を読み進めている。厚さのわりにペースは早い。おれはべつに字を読むのが速いほうでもないので、読みやすい文章ということなのだろう。ところでおれは先日「姑獲鳥の夏」を読んだあと「なぜならこれは体験や舞台の話でなく記憶の話なのだろうとも思えるからで」と書いたが、どうもそれは当たらずとも遠からずといったところだったのではないかとの思いが強くなった。「魍魎の匣」の謎はいまだ明らかではないが、本当には、どうもこれまでに出ている材料だけでも、じつは大部分について既にかなりすっきりできるところまできているんではないかという気がしているからだ。「記憶」と書いたのはそういうことで、物語の真相に対して要点を外していたり、曖昧なままスルーされていたり、または誤解されていたりしながらも、全貌は描かれてあるように感じられるのだ。それらを事件解決へ向けてきちんとフォーカスを合わせパースを整えれば、あるべきものがあり、ないものはなく、謎でもなんでもない真相が眼前に結ばれるような気が、する。

というあたりから、京極堂の探偵能力というのは「理解力」「記憶力」の二点なのかなと思った。読者であるおれが現時点でぼんやりとしか事件の全貌を見ることができないのは、それはおれが登場人物たちの「記憶」をそのまま素直に受け取っているからだ。記憶は事実の模写ではない。恣意的ともいえる。その人物が注目しているところが強調されたり、注目していないものがぼかされたり、またはわからないので「たぶんこうだろう」と適当に整合性の取れる推測が当てはめられたりする。さらにその「記憶を読んでいるおれ自身の記憶」にもそのような工程がはさまってくる。読む過程で「読んでもいないのに読んだ気になっている部分」というのが生まれるわけだ(対叙述トリック防御の出来ている老練な読み手であればこれはないんだろうけど、そうであっても語られる「記憶」の正確性が保障されないので、結局しばらくは翻弄されざるをえない)。事実に基づきながらも食い違う。だからこれらのピースは微妙に合わない。京極堂が真相に辿りつくのは、他人の記憶(つまりこの物語)をそのまま受け取らないからだ。彼は誤読をしない。事実に基づいた記憶の話から、誤差を除いた事実だけを抽出する。そして一度見聞きした話を忘れない。事実に注釈を付加しない。そうして複数の関係者の証言や文献から得た知識に基づいて結論を出す。だから彼は「この世には不思議なことなど何もないのだよ」という。彼の「(絶対に)誤読をしない」という能力が保障されている限り、彼にとっての世界には「事実に基づいた当然の結果」しか現れないのではないか。