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最近の読書

PGR3 体験版 | 060110

姑獲鳥の夏」を読み終わった。おもしろかった、が、ちょっと消化しそこねた部分も残った。あまり関係ない話だが、この本は文章や台詞がおもしろいんだけど描写されている映像を思い浮かべつつ読むのも大事かなとも思いながら、なぜなら仮想現実であるとか錯覚というものは、それを像に描いてはじめて腑に落ちるものだろうからだが、しかしあまり脳内映像化にこだわりつつ読み進めるようなものではない気もしていて、なぜならこれは体験や舞台の話でなく記憶の話なのだろうとも思えるからで、だから本を読み進めていく行為が、文字の記憶と映像の記憶が個別に最初から最後まで完結せず、それらがごっちゃになっているというか、両方ともある部分や片方だけしかない部分など、おれの記憶への格納のされ方がまちまちというか、ちぐはぐにつながっているような、つながっていないようなかんじで、そのへんも読んでて楽しめた。これスピード優先で読まなかったら全部文字だけで読んじゃったかもしれないな。そっちのが正解な気もするけど、べつに正解だけが欲しくて本を読んでるわけでもない。

で、一冊目を読み終わったら次は二冊目…と思って「魍魎の匣」を手にとってみたの、だ、が、でかいなこれは!ポケット時刻表かよ!いやそれ以上のものだ!びっくりした。これ二冊束ねると縦だか横だかわからなくなりそうだ(横幅 10cm ちょっとに対して厚み 4cm くらいある)。たぶんあれだ松本零士氏作品に出てくるキャラクタがいつも食いたがってるステーキってこんなかんじだよね…と思った。まあステーキは肉であってこれは本だけど。「魍魎の匣」はもちろんシリーズものとして「姑獲鳥の夏」と同じ棚に並んでいるわけだが、一作目を取り出したとき横目に見ていたはずなんだけど、「それは本だ」という認識をうまくできていなかったようだ。ブックエンド感。または初回限定フィギュア付飾り箱とか。「姑獲鳥の夏」で十分分厚かったのに「魍魎の匣」は分厚すぎる。これ持ち歩いて読書ってのはちょっとすごい絵だな。文庫サイズになったほうが逆に取り回しが利かない気までしてくる。おれのポケットはそれなりにデカいがさすがにこれ入れるとパンパンになってしまう。いいかんじではない。仕方ないので肩掛け袋に入れて持ち歩くことにしよう。

でもこれどう考えてもモバイル読書用の本ではありませんよって厚さだよな。家でテーブルのうえに本置いて読めってサイズだ。両手支持で。厚すぎるので重しを置いてページを開きっぱなしにするのもむずかしいから。でも「通勤読書をしているひとを見るとき、京極氏作品はその本の厚さだけで一発でわかる」みたいな話も聞くし、てことはこれを通勤読書に使っているひとはそれなりに居るはずだ。この扱いに困る四角いカタマリをなあ。トートバッグにいつもレンガ入れて持ち歩いてます、みたいな異様さ。