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さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち

旅行写真 | 060102

そういえば先週末は、金曜深夜→土曜深夜と前後編に分かれて「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」が放映されたんだった。ちゃんとぜんぶ見た。ヤマトといえば一時代を築いたアニメ作品であり、おれも再放送やビデオなどで何度もシリーズの作品は見たことがあり、というか同時代オタの中ではかなり勉強した部類に入るだろうと思っているけど、まあ結局おれはヤマト世代では(さらにいえば初代ガンダム世代ですら)ないわけなのでアレだが、でもまあ NEW MAD TAPE の孫世代くらいではあろうと自負するところではあるのでそういった意味での思い入れなどはあり(本作の台詞も、全部暗記はしてないけど名場面等についてだけなら脳からスラスラ出てきたよ)、ともかくこの「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」は、ヤマトの中でも最も象徴的であり大きな反響を生んだ映画版と認知しており、21 世紀を迎えおれもいい加減おっさんになりパワーゲームとか舞台裏とか思想的なものとか文脈とか、もちろんその後のアニメ技術の進歩とか、いろんなものがそれなりに見えるようになった現在にこれを見たときの摩擦感ってどんなかんじになるのかなあというのが主な興味だったのだが、意外に淡々と楽しむことができて驚いた。これはこれでというか。諸々つっこみどころがありはするけどさすが一時代のものだけあって徹底はしている。本作の公開は 1978 年、四半世紀を経て大概のことは遠くなった。これにつっこめるほどおれの腕は長くない。

雑多に思い出したこととか思い浮かんだ事柄のインデックスとかをメモ。

  • ヤマトは日本が世界制覇した未来(ガイジンほとんど出てこない)?
  • 一級の自己犠牲作品としてのヤマト(自己犠牲作品自体が旧式だという話は置く)
    • そういや自己犠牲→復活について、シリーズ継続によって区切り毎に入る形式を第一世代、クライマックスでの自己犠牲→最終話で復活(これを「大団円のグレアエフェクト」と呼んでいる)というふうにシリーズ内に犠牲復活を内包しちゃった形を第二世代とすると、第二世代が勃興してきたのってどのへんからなのかな。まあ第二世代の立役者はあかほりさとる氏とかになるのだろうけども。アニメに限らなければ、週刊少年ジャンプの長編バトルものとかもそうか。
    • おれの場合でいうと、それが自己犠牲作品だからという理由で批判する必要はないと思っている。説明がむずかしいところなので要素を列記。
      • キャラクタが死なない作品よりキャラクタが死ぬ作品のほうが多くのひとにとってエモーショナルであるというのは事実だと思うし、多くのひとに情動してもらおうと思ったときキャラクタを殺す選択しか思いつかなかったなら、まあそれは致し方なかろうというか。すべての制作者が「キャラ死なないしばり」を己に課すべきだとは思わない(つまりこの構造は、「多くの(実)人間に対する少数の(仮想)キャラクタの死」という形で自己犠牲パターンを内包している)。
      • 「犠牲」と「それを正当化しうるだけの理由」は両方とも作品中に内包されていて、作品内と作品外は隔絶しているため、おれがどうこういう筋合いの話ではない。まあ作品内のことはすべてが作品の制作者のもので、つまり「作品内での犠牲」も「作品内での犠牲を正当化しうるだけの理由」も、制作者がいかようにでも操作できるものであるという話でもある。
      • そもそも、べつに「正当な理由」ゆえの「犠牲」でなくてもひとは死ぬのであまり感情がない。むしろ必ず報われる(という約束がある程度保障されている)作品中キャラクタの自己犠牲はクリアすぎて現実への置き換えが困難(仮構された世界であるなあ感)。
      • 自己犠牲作品批判には、そのキャラクタに対して感情移入していたひとにとって流れのブッタ切りであって問題だ、というような筋合いもあり、まあそれは確かにそうかもなあと思いつつ、でも作品中キャラクタとそれを見ている自分は別なんだし、あまり他人(というか他キャラクタ)に視点を預けすぎるのもどうよ的な反発もある(感情移入型の作品鑑賞様式への抵抗→http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20050731#p2 後半)。というかこれはあれかな「なぜ少年主人公は、師匠という壁を乗り越えたとき違う世界を見なければならないのか」みたいな話ともつながってるかなあ。一流の少年漫画の主人公は、それに熱中していた少年に、いずれその時期が来たとき気持ちよくさようならを言わせることのできるキャラクタとしてあらねばならないみたいな。
        • 「永遠に夢を追いかけて走る主人公」を感情移入型の鑑賞法で追いすぎてしまったために「自分も永遠に夢を追うんだ」と思い込んでしまう観客が出るのは問題である、また観客に対しそのような見方を誘導するのは残酷である的な筋合い。キャラはキャラ、自分は自分であって取り巻く環境や目の前の問題は別個である、ということにどう気付いていくかというかなんというか。
      • 「自己犠牲なんてとんでもない!みんなで生きて帰るんです」とかいうのは、つまり感情移入型の鑑賞法勢力がどうにも強くなっていかんともしがたいために、彼らの健全さを損なわない作品を流通させるための思想と考えることができる。感情を移入しなければ、スクリーンの向こう側のひとたちはすべて他人で、他人の生死は(どのみち軽くはないが)それだけのもので、そこから受け取ることのできる「そこに踏み込んでいくことのできない自分」であるとか「他人の生死によって受ける情動は自分の生死とあまり関係ない」などといったことは、むしろ現実に置き換え可能な(リアルな)理解といえるのだが。
      • 「自分が好きなキャラが死ぬのはゆるせない!」みたいなのは、「好き」から派生した所有や支配への欲望とでもいうべきものだが、まあそういうのは「そうなんでも欲しがっても報われる機会が薄まっちゃってしあわせから遠ざかってんじゃないかな」とかそんなかんじ。でもまあこのへんには「そういう視聴者の錯覚を利用してでも作品への注目を喚起したい」みたいな見えづらい操作もあったのかもしれないな。このへん勘繰りすぎかなおれが。でもまあ仮にそこで制作側が圧力に負けちゃうパターンが出来上がってしまうと、それ以降「所有や支配ができるからこそ好きになる」みたいな逆転の構図(スパンの短いグロテスクな消費)が成立してしまうのでやりづらかろうな。いやもうそれ成立してんのかな。ますます考えが胡散臭くなってきた!
  • 世代論とかは若者の吹き上がりな気がする(おっさんとはそういう生き物なのだから、そこへの反応も結局同調であり空しい)。そういう「無視できない」気質が見えるからこそ、おっさんはそれを利用しにかかるんだろうけども。
  • 真田さんの「こんなこともあろうかと」は有名だけど、実際に「こんなこともあろうかと」と言った回数は実はそんな多くないんだよな→シリーズ中には一回しか登場してないそうだ(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E5%BF%97%E9%83%8E#.E3.80.80.E3.81.9D.E3.81.AE.E4.BB.96.E3.80.80)。
  • ヤマトといえば「何度でも再生する第三艦橋」だけども本作では壊れなかったな(←たぶん。回転ミサイルが直撃してるところとかよく見たら壊れてるかも)。というかあれもシリーズ通して実際には何回破壊され再生したのか(修理の描写があるか、なにごともなかったかのように次のカットで戻ってるかなど細かく)気になるよな。調べればそういうデータを記録したサイトとかありそうだけどめんどいので探すのはまたの機会に。

アクションがノロノロしてるけどまあこれは時代のこともあるしそういうもんだなー、と見流していたんだけど、そのちゃんとした理由が書いてあるページがあって、なるほどと思った。三コマ撮りってやつか。

しかし、今回ひさしぶりに見て感じたのは「アクションの遅さ」でした。
もっともテンションの高いはずの戦闘シーンなどでも今のアニメーションの水準からすると特殊効果のスローモーションかと思うほどの動きの遅さ。
これは何故なのかと考えてみたら、動画枚数が少ないので、早い動きは絵が飛んでしまって書くことが出来ないという事情だったのではないかと、思うのでした。時代が変わったんですね…。

因に本作は全体的に 8 コマ / 秒。銀河鉄道 999 は 8,12 コマ / 秒、背景のスクロールは、 24 コマ / 秒などをカット毎に使い分けているようです。
最近のアニメを代表する「もののけ姫」では標準が 12 コマ / 秒。アクションシーンは 24 コマ / 秒でした。もちろん、タタリ神のうにうにもフルアニメーションしています。

そのほか作画まわり。

  • パース動画がモリモリと崩れるんだけど、それがまた妙に味わいぶかくて良。あと被弾しながらパース画で抜けていくヤマトのカットなどは、ヤマト自身が苦悶しているようにも見えておもしろかった。やっぱ味わいってあるなあ。単に整ってるだけではだめなんだ。
  • そういや「敵将とかが天井の巨大モニタに投影されているヤマト艦橋の絵」って、二次元のスクリーン(TV 画面)中にまた二次元のスクリーン(艦橋内のスクリーン)と、二つの別個なパースが一画面中に存在する絵で、じつはこれ昔は相当メタだった、みたいな話があったよなと思い出した(ヤマトが初出かどうかは不明)。現代風には、3D 空間をレンダリングして、それをまた 3D 空間にテクスチャとして貼り込むというかんじになるか。珍しくもない。アニメでもけっこう見る。デジタル以降のアニメだったらパースも正確(あたりまえだけど)。時代は進んだのだなあなどと、ときどきふたつのパースがごっちゃになっちゃったりするヤマト艦橋の絵など見ながら思った。

あと彗星都市を見て「天空の城ラピュタ」を連想した。この連想は高校時代くらいにもやった覚えがある。本体は侵入不可能の渦に覆われていて、でかい外郭が球体の上下を区分しており、下半分は完全球体、上半分は都市という。下部球体にある小型機射出口から主人公が内部に侵入するところとかも同じ。これはヤマトを見てラピュタが参考にしたのか、またはヤマトもラピュタも共通の元ネタから連想してあのような形になったのか。そして、ラピュタ公開当時(86 年)に劇場に見に行ったアニオタの間でこの問題はどのように認識されていたか、されていたとすればどのように納得していったか、または認識されていなかったか(「浮遊城とはあんなふうな形をしているものである」みたいな共通認識が出来上がっていたとか?)。先に引用したサイトのひとの場合、本作でなく 83 年公開の「宇宙戦艦ヤマト 完結編」のほうでラピュタを連想しているようなので、それとなら 3 年しか離れていないラピュタとヤマトの妄想リンクチャンネルはけっこう太かったんじゃないかなとか思わなくもないというか。

「(絶景をあらわすたとえとして)右に松本(西崎)宇宙城、左に宮崎空中城」みたいな文句は以前にどっかで読んだ記憶があるのだが、どこで読んだ話か覚えてない。ネットかなあ。草の根 BBS とかだったような気もする。または宴席での与太話だったかもしれない。ともかく、当時に詳しいアニメの偉いひとにでも会ったときに聞いてみようと思っていたのだがなかなかその機会がなく、聞くことを忘れたまま時間が過ぎて 2005 年も暮れようとしている。ともあれ、あの彗星帝国がヤマトに破壊されないままなぜか地球に着陸(というか大気圏突入)し、オーバーテクノロジーで世界を支配しながらも世代を重ねていくうちに衰退してやがて滅び、それから何百年か何千年かしらないけど時間が過ぎたあとズォーダー大帝の子孫たるムスカやシータがおおあばれする時代になる、とか妄想するとけっこう楽しい。または「これだからマッチョ野郎の考えることは!まったく暑苦しくていけねえよ!これからはエコだよエコ!」的に吹き上がった宮崎氏が、最強に強まった彗星帝国をあらかじめ滅ぼし、新しい時代に廃墟で戯れる少年少女を描いてみせたのかもしれんねとかなんとか。