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「よろしかったでしょうか」がなぜむかつくか

とっくのむかしにメモってたつもりだったんだけど昔のメモ見たら URL メモが消されずに残ってて、ログ検索しても記述が見当たらなかったのでひょっとしたらあれか「やったつもり」症候群かと思ったので気分的には再びメモ。

「よろしかったでしょうか」は客の行動の自由と判断の責任やわずらわしさを負わせないという二つの配慮を両立させているので優秀だよ派。客側としては最新丁寧語のパッチを当てて対処しましょうみたいな話か。

「よろしかったでしょうか」のいなし方。しかしこの対処法だと店員側はオウム返しするだけでよいのに対して注文側は別のメニューを選びつづけなければならず、また無限ループ終了の主導権が店員側にあるため(ものすごくへんなメニューを頼んだ時点で「よろしいでしょうか」と言い直されたらバツが悪い)、あまり有利な状態に持ち込んでいるとはいえないと思う。カツランチ定食とハンバーグ定食とか、どっちでもいいようなメニューを交互に注文するとかすれば多少コストは減るか。

これに対して、国立国語研究所の上席研究員吉岡泰夫氏は、「確認の敬語」として広がったと見ている。「よろしかったでしょうか?」は確認の敬語であり、「よろしいでしょうか?」は許可を求める敬語である。客が不愉快になるのは店員が許可を求める場面で、確認を求めることになるからだ。

「よろしかったでしょうか」でむかつく心理に関する考察。おおむね同意できる内容。おれの場合には、この問題は「Virtua Fighter」と「鉄拳」のゲーム性差に例えて理解している。おれは鉄拳よりバーチャが好きなので、「よろしかったでしょうか」がむかつくということだ。

バーチャはボタン即反応が基本のゲームであり、この「思った次の瞬間にはキャラクタが動いている(心体の瞬発的同期)」感覚の連続がいはゆる(といっても古語になってしまったが)バーチャハイを生み出している。さらにほとんどの立ち技は途中ガードボタンを押すことでキャンセルでき、その点で攻防の組み立ての幅が保障されている。そのようなゲームであるバーチャでは、コンボというのは原則的に「タイミングよく畳み掛けるように技を入力していくこと」と定義できる。技の始動が速く、キャンセルの自由度が高いので、そのようにしかならないともいえる。

対して鉄拳の場合、入力→反映はバーチャほど素早くないが、そのかわりコマンドの先行入力受付時間の幅を広めに取ることで「ここだと思った瞬間に一気にコマンドを叩き込む(意思の圧縮)」快感が前面に押し出され、そこに独特の中毒性を成立させている。一連の入力系としてコンボがつながっているのだ。その代償として鉄拳はガードキャンセルが弱い、つまり一度始動した技を途中(失策だったと気付いた時点)でキャンセルできないことが多い(鉄拳の負けパターンはこの「手遅れ」感の積み重なりだ)。それだけでは技を読み切られた場合に必殺反撃確定となって攻め辛いゲームになるところを、入力分岐による上中下段の打ち分けの多様化と、ガード硬直・ヒットバック距離などで調整している。いはゆるコンボシステムは、だから鉄拳にこそ必要な用語といえて、バーチャの場合には「ほかのゲームにコンボという用語があるからそれを使ってバーチャの連続技を説明しているだけ(≒条件を充たせば安定してヒットできる一連のコマンド系)」といえなくもない。

まあ実際にはそんなはっきりわかりやすくバーチャと鉄拳でこのへんの考え方が住み分けられているわけではない。バーチャも 3 で一回先行入力寄りのゲームになったことがあった。イメージの話だ。

「よろしかったでしょうか」に戻ると、これは店側の事情に最適化された様式と判断できる。「よろしいでしょうか」より「よろしかったでしょうか」のほうが、オーダーを変更される確率が低く抑えられると思われるからだ。メニューを見ながらあれこれ悩む選択(選択肢無数)のフェイズを、よろし「かった」と過去形で宣言することで終わらせて、現在を確認(「はい」か「いいえ」の二択)のフェイズだと認識させる「よろしかったでしょうか」は、客側の快適さ(無駄の演出)よりも店側の運営円滑化(効率)に貢献する。

「よろしかったでしょうか」、オーダーの確認、おれは「過去のおれ」についての責任を求められているかのような気分になる、責任、自由度に圧し掛かる制約、確かに条理でいえば行為に責任はつきものだが、そこはそれ、おれ今金支払う側なんだから金支払われる側の人間として多少のことを大目に見るのもサービスのうちではないか、直接的にいえば「おれのわがままを金によって許せ」であり大変生臭い話だが、べつにお客様は神様だとかそういう待遇を要求してるわけじゃなくて人間様いっこぶんの待遇でいいのだ、つまり店に入って出るあいだのおれの自由度の幅を保障してくれ、確かに先行入力式の世界観は店側に都合がいい、柔軟にガードキャンセルを受け付けてたら面倒だからな、まあきみが背負うシステムが鉄拳であればいいというきみの願望はわかる、わかるがそれがいまだ願望にすぎないことを知っている、なぜならその方式は店のルールとしてメニューなり壁の注意書きなどで明文化されていないのだから、いまきみがやっているのは既定のシステムの代弁でなく、きみの望む世界観によって実世界を再配置したいという闘争で、それならばおれときみとの立場は変わらない、つまり、きみが鉄拳式を押し通した際に不都合が生じることがあればおれはいつでもガードキャンセルの権利を行使できる世界観をもって実世界を巡る世界観闘争を受けて立つ用意があるということだ、が、べつにおれは誰かと戦いたくて店に入ったわけではないのだし、お互いラクして暮らしていけるに越したことはないのだから、ぐだぐだゴネだすようなことはしたくないししないが、ていうかそういうのどうでもいいのでとりあえずビールもってきてよビール。

ようするに効率化によって得られる物質的富裕と抱き合わせ販売されてる精神的貧乏くささみたいなものの一種。敵が細かすぎて戦えないんだよなこういうものとは。

(追記)勢いで書いてしまったので書き漏らしがあった。

  • 「よろしかったでしょうか」は過去の注文者を踏まえての確認。
  • その場における現在の注文者の役割を軽んじられている気がする(実際に負担は軽くなっている)。
  • 店員は、現在の注文者を前にしながら過去の注文者を見ている(というポーズによって状況をスムーズに終了させたい)、客としては過去の自分でなく現在の自分に向けて喋ってほしい、なぜなら過去より今が新しく、自分の主権は常に更新されているのだから(という自意識の発動)。主権を軽んじられている(現在の自分を、過去の自分の言ったことを確認するためだけの存在として扱われることに対する)不当感。