エロゲーヒロインが劇場ヒロインになるとき
Key 社のエロゲー「Air」が劇場アニメ化されるという(http://www.air2004.com/)。以前にも「Kanon」が TV アニメ化されていたし、そういう意味では順当なステップアップといえるのかもしれないが、時期的に一連の流れとしてつながっているのかどうかは知らない。
で、それとあんま関係ないといえばないのだが、エロゲーヒロインについてひとから聞いたり自分でこねくりまわしたりした妄想成分が、けっこう溜まってきているのだが、Air の劇場アニメ化というキーワードをとっかかりにするといい具合の芋蔓が引っ張れるかな?と思ったのでちょっとやってみる。
- エロゲーヒロインは、プレイヤに「一対一の体験」を提供すべく開発される。
- エロゲーを大勢の人間と一緒に遊ぶプレイヤはあまり居ない。
- ギャルゲーでいうと「ゆめりあ」をネットワークごしに多人数で同時に体験するというあそびをやっていたひとたちは居たが、あれなどはまだ特異なケースだと思う(多くの前提が必要という意味で「高度な遊び方」だろう)。
- 当然数を売られる製品であるから、多くのプレイヤがまったく同じストーリーをバラバラに体験しているのだが、しかしプレイヤ個々人の体験それぞれは、各プレイヤにとってユニークな体験であると理解されるのが通例であるようだ。
- そうして得た体験は、プレイヤ同士で共有される。
- 経路でいうと、
- 唯一のマスターイメージとして開発され、
- マスターディスクから多数のディスクに複製され(分岐)、
- 個々のディスク(製品)からインストールされ(一枚のディスクから複数台の PC に分散する可能性)、
- 各プレイヤにユニークな体験を提供し(一台の PC から複数のプレイヤが固有の体験をする可能性)、
- そうして得た経験についての情報をプレイヤ同士で共有する(合流)
- 個から集団を経て状態に至る流れとなる。
- 象徴としてのエロゲーヒロインは唯一であるが、実態としてのエロゲーヒロインは、それを体験した人間の数だけ変容する。
- この考え方の根っこは池袋の死なない黒猫(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20021113#p1)に対するそれと同じ。
暮らしのうえの話なら、二股発覚で大騒動なんていうのはごくありふれた風景だが、物語としてキャラクタを受け容れた場合、このような問題は(話題としてはあれほど念入りに共有されるのにも関わらず)まったくといって発生しないということがわかる。メイド喫茶などのソフト風俗や、あるいはキャバクラなどでも、こういったパターンは基本的に踏襲されているのだろう(曖昧な言い方だと「大人の付き合い」ってかんじになるのだろうか)。ゲームヒロインと違って生身の人間は複製されないので、もうちょっと事情はややこしく(リアルに)なるだろう。
で、そういったことを踏まえて Air の劇場版に戻ってくると、これってつまり「一対一を前提として開発されたキャラクタが、劇場のスクリーンという一対多のシチュエーションに投入される」ということなのだ。そうなったときの劇場の雰囲気ってどんなふうになるんだろうかな。全員がスクリーンに個人として没入するとかならわかりやすいんだけど。でもたぶんそういうふうではない。もちろん全年齢版をある程度前提としたような Air 以降の「大作」と呼ばれるクラスのエロゲーなら、話題として共有されることを見越したアイドル性も付加してきているはずなので(一人に対する演技と多数に向けての演技)、さして違和感を感じないはずではある。むしろこのような見方のほうが特殊と位置づけられる確率が高い。とはいえなー。あと TV アニメとしての放映などとはレベルが違ってくると思う。同時性という意味では 2ch をはじめとする実況スレッド等が充実しているのであれはあれで見どころのある消費形態だと思うけど、それでもまだ「各個人が見ているモニタは別」だからだ。
ふとエヴァンゲリオンの劇場版が、映画館でどのように観られたのかとかにつながりそうな気もした。制作者も消費者も当時と比べれば老獪になっているだろうから、「スクリーンから見た客席を映す」みたいなド直球は、二十一世紀ではなかなかやれないだろうけど。