押忍!闘え!応援団(←誰に?誰が?誰を?)
「押忍!闘え!応援団」を遊んでいて漠然と思い浮かんだよしなしごとをとりとめなくメモ。
- 世界と物語
- beatmania には世界自体存在しない。画面は壁である。ゲームは画面を含むこちら側で行われる。強いて挙げればプレイヤ自身がキャラクタだが、それはある意味当然のことで、そこに倒錯はない。
- DDR には画面の向こう側が一応ある。けどキャラクタはゲームと同期していない。画面は窓である。ただ居るだけ。特に進歩と呼べるものはない。そんなつもりもなかったろう。べつにそこを掘り下げてどうというようなゲームではなかったし。
- スペースチャンネル 5 には世界がある。うららスター装置として働いている。うららはプレイヤ自身ではない。うららは相対している。その装置へ肯定的に参加してゆき、うららを好きになるのがゲームの遊びかた。
- 応援団は…複雑だ。もう十分にこのジャンルのゲームは開拓されているのだから、その後に出てくる応援団は高度でなければならない。画面の奥には世界がある。物語はそこでは展開される。いま物語と言ったが、それを演じる「彼ら」はプレイヤ自身でないばかりか、画面の手前とは隔絶している。彼らは応援団によって応援されることによってプレイヤと関係している。なら応援団がプレイヤかというと、違う。プレイヤの操作は、彼らの応援と連動しているが、操作結果は応援団に対して間接的に反映される。つまり応援団員の立場はうららに近い。ただし応援団員はうららではないし、このゲームは応援団のスター装置ではない。彼らもまた応援される存在だ。誰に?プレイヤにだ。ゲージが下がれば彼らの動きは鈍り、やがて止まってしまう。それでも音楽は鳴り止まず、笛や太鼓の音は途切れない。なぜか?音楽や笛や太鼓を鳴らしているのが彼らではないからだ。では誰か?プレイヤだ。プレイヤが応援しているのだ。
- 「上画面:物語のキャラクタ」←(応援)←「下画面:応援団」←(応援)←「画面外:プレイヤ」という三段構造になっている。プレイヤの応援によってやる気を出した応援団の応援によってやる気を出したキャラクタが物語で見事な勝利を演じてみせる。あまり複雑に感じないが、よく考えてみるとものすごくメタなゲームだ。
- 「応援」
- これら物語の主人公たちは本当にすばらしいなあと思う。彼らはどうしようもないピンチに際して、応援団を呼ぶ。その覚悟が良い。自分でがんばる用意があるということだからだ。自分でがんばる用意がないなら、呼ぶのは応援団でなく救援団だ。たすけてくれ。応援団は助けない。応援するだけ。主人公は助けなど求めない。自分のことは自分でやる。やり遂げる。それだけのポテンシャルを持ちながら、それでも応援をしてほしいのだという。「おれががんばるのでおまえらが応援してくれ」。なんと潔く覚悟の決まった人間のありさまか。信頼関係か。
- ここに生じる「がんばれ」感はとてもすごい。なんだかしらんがおまえはがんばれ。がんばる気があるやつががんばるための応援を頼んでいるのだから、これは応援し甲斐があるという話だ。そしてもちろんそれだけではない。応援が力になり、力が結果を出す。日頃曖昧で曖昧でしょうがないものがスコアとなりコンボとなりクリアとなり、光で音でプレイヤの前に現出する。ゲームならではのカタルシスだ。このゲーム内の世界では、応援が確実の力として存在しているのだ。心だ。それが形になっている。無駄にしないやつらのために、無駄にならないことをやる。やればできる。これでやる気にならないほうがおかしい。
- ものすごい肯定感。スペースチャンネル 5 よりも突破的なベクトル。あれとはアプローチがまた違う。別のものだ。応援された者が応援し、それは終わらない。応援のドミノだ。このゲームはたぶん最後に世界を救う。そう思ってたら、実際にそうなった。笑った。大したものだ。やり方はいろいろあろうから、いろんな方法で世界が平和になればいい。塊魂もそうだった。
- ええとーそれで、最後に画面の向こう側で練り上げられた応援のボルテージはプレイヤに還元され、これにて輪が完結する。0 を吹き込むと 1 になって返ってくるゲーム!ってことでいいんだよなあこれは。すごいな。