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社会と縁とサービスと

mixiに紹介文機能が実装された。ひとのトップページに「このひとはこんなひとですよ」と情報を追加できる仕組み。自分のトップページに他人からの紹介文が掲載されるということでもある。そのひとのことを知らないひとにとっては、そのひとが他人からどう見られているのか知ることができ、ひととなりを掴みやすくなる。ソーシャルネットワーキングサービスとしては、わりとあったほうがよさそうな機能のひとつ。だがこの紹介文はむずかしいというか、べつにこれに限ったことではないのだが、紹介文は情報社会のとりわけ微妙な位置に成立している機能なので、改めて意識されるかんじ。

むずかしいのは、紹介文以降のネットワーキングにおいては個人情報の管理(というか認証?)のラインが曖昧化するという点だ。かんたんにいうと、紹介文という機能によって「ひとに自分の個人情報が漏洩されていくことを容認する」機会が増える。もともと紹介文には身内による個人情報の漏洩を推奨する性格があるからだ。ガチガチ硬派で孤立してゆく管理社会もいいけど、多少やわらかく混じって溶け合うなかよし社会とかどうですかみたいな、ソーシャルネットワーキングが背負って立つ「こういうのもアリでは」というモデルのひとつみたいな。とはいえweb上のソーシャルネットワーキングサービスはまだまだ実験段階で運用実績もくそもなく、仕組みや事業体自体あまり信頼に足るものであるという根拠を得てない現状では、やはりその運用についておもしろさよりもむずかしさのほうを感じてしまう。

  • 所属しているプロ野球コミュニティでは中立的立場を取っていたが、紹介文から広島ファンであることが露見
  • 猫耳ギャルが大好物」というキャラで通してきたが、実は家で犬を飼っていることが発覚し、危うく魔女裁判
  • 最近抜け毛が気になっていることを暴露される
  • 住んでる街は内緒にしていたのだが、友人になにげなく「ご近所さん」と紹介されて、そのひとは住所を公開していた

ネットワーキングというものの主体が「個人」になるか「人間関係」になるかの差というか、人間関係を中心にすえた場合の個人情報の扱いの主体は、その個人がすべてにおいて優先されるわけではなくなるかんじというか。そこいらへんの感触の違いなんだよなたぶん。ソーシャルネットワーキングにおける個人というものは、人間いっこぶんの大きさに収まっているそれではなく、本人を含んでそのひとと関係のあるひとたちとの縁というか、網状に広汎に曖昧に拡散して存在していて、責任や権利に中心は存在しているけども、だからといってそれがすべてであり絶対だとは言い切らないネットワークなのかなというか。まあそういう構造は、脆いので、保護された領域を区切ってあげないと成立しないから、(逆説みたいだけど)サービスという形を取ってるわけだろうし、あとまあガチガチばかりも辛いのでそろそろゆるい空間も欲しいよみたいなアレが。そしてゆるさを得るためには多くを許容しなければならないから、硬い気持ちのままで居続けたいなら、たとえばソーシャルネットワーキングにおける紹介文機能のような存在を、むずかしく感じ続ける必要がある。