名言と凡言
大雑把に言葉に「日常の他愛もない言葉」と「名言」があるとして、まあ凡言よりは名言のほうがおもしろいので、ネットにおいては名言のほうが残っていきがちだけど、でもその名言を収集するシステムみたいなものが出来上がったときに見える光景ってのは「毎日絶えることなく垂れ流されていく名言のガンジス川」みたいな状態なんだよねー。あー、いや、なんか、この状況はおかしくねえかっていう。写経って自分でやんなきゃ意味がない気がするんだけど般若心経も Reblog しとけばオッケーみたいな勢いで。それぞれの名言なり格言なりは、分野個別のエース級のすごいやつなんだから、ひとつひとつ額縁に入れて飾っといていいくらいのものなのに、わざわざ集約して相対化してバルク品で三割四割当たり前でベルトコンベアに乗っけて世界の果てにはリヴァイアサンが居て以下略。要らんときに目に入れんでも。名言麻痺で名言耐性を上げる陰謀か。
…というようなことを、シャワー浴びたあと水飲んでて思った。つまり、浴びる水と飲む水の関係か。水質っていいに越したことはないけど、浴びる水の質は飲む水ほどこだわる必要がない。名言は飲み水としてイメージしていて、日常の他愛ない会話は浴びる水と。でも一部には、毎日浴びるように名言を読み流す生活習慣があるように見える昨今でもある。となると、飲むほうの水はどうやってんだろ。それも名言?案外名言に飽きちゃって、他愛ないほうの凡言をゴクゴク飲んでたりせんか。それはそれでいいけど。他人にとってはどうでもよくても、この状況このタイミングで投げられたこと凡言がおれにとってはズギューンときたー!みたいな神秘体験のほうが、カスタマーサービス感を得られるから消費者的にありがたい気がするし。でもそれってつまり、普遍性を上げれば上げるほど言葉が届かなくなるっていう、DQN 的状況だね。