トップをねらえ 2!
何度目か忘れたがトップ 2 の一気鑑賞会@おれの家。おもしろいなー何度見ても、このおもしろさの消費されづらさは、トップ 1 とはまったく別種のものだ。トップ 1 は、大雑把にいえば中身がないので消費しづらいのだが、トップ 2 にはそれなりの内容がありつつ耐消耗性が高い。最初にまず金を支払ってパッケージを買うことで鑑賞可能になる OVA とは、こういうものでなければならないというひとつの形だと思う。TV シリーズなどの DVD パッケージと OVA では作品の意味合いが違う。どのような手段によってでもいいけど、繰り返しの鑑賞を前提として組まれた作品でなければ不十分ということだ。トップ 2 は、成功していると思える。
いまだ感想がまとまらない。消費できていないからだ。モノは消費できなければ「感想らしい感想」を持てないということが、だんだんわかってきた。瑣末や枝葉に流れるのは簡単だが、全体を見るのがむずかしく、実感を持てない。トップ 2 には(90 年代中盤以降の作品らしく)テクニック的なフェイクも大量に含まれているので、そういった部分に惑わされているってのもあるだろう。アニメについてそのような見方をもはやできなくなっているのかもしれないという懸念もあるが、まだ諦めきるのには早い。
でもやっぱり見えないので枝葉のメモ。
- トップ 2 の主要登場キャラクタのほとんどは初期段階で屈折しているが、状況変化によってその段階を越える。通過の仕方は様々。
- アニメキャラが屈折っていうと、一般的にどうにも「あーはいはいトラウマトラウマ」って気分で見流してしまうが、トップ 2 の場合「屈折しているやつはたくさん居るけど、いじけているやつは一人も居ない」というのが、見ててあまりイライラしない理由かなと思う。めんどくさそうなあたりを描いていながら、かなりの直球感。
- ニコラの額を押さえる気障なポーズが、そのまま四話〜五話のアガリへの焦燥につながっているのがうまい。カシオのバンダナ以前以後とかと併走。フリクリ四話のマユゲ演出の流れか。どうも髪の生え際にこだわりのあるひとなのかなあ的な。これに限らず、いろんな小芝居が前後のつながりの役目を果たしていることが多いように思う。
- 劇場版ではまるまるカットされている三話はチコのいい話で、これは沢城みゆき氏のいまどきに珍しい演技派っぽい声優仕事が光ってるなあと思った(そう単純でもないのだが、大雑把にいえば「かわいいキャラに似合うかわいい声が出せる」以外の仕事としての)。うまい…のかどうかはよくわからないが、ミスマッチ感が合致している。おれは声優のひとの演技の良し悪しについてあんまよくわからんというか、つまり「うまいと感じさせることは、声優の仕事としていいのかどうか」とかそういう話で、この場合の沢城氏の仕事は「良い」のか「うまい」のか言語が選べない。実写の場合ならもうちょっと単純で、初見時に「演技しているひとが極上の芝居をしている」というふうに受け取れるものより「作品の登場人物がふつうに喋っている」ように見えたほうが、良い演技をできているということなんだろうけど、アニメの場合はむずかしいよな。どうかなーそれでもまだ微妙に「チコとしての感情表現」と「チコとしての芝居」と「沢城氏の演技」がおれの中で合一しているわけではない気がするな。で、そのほうがこのエピソードについては良い効果として受け取れる気がする。チコというキャラクタ自身が、わりとそういった状況を重ね合わせて見れるキャラなので。
- 五話のラルクの踏んでいくステップが良い。ノノの部屋の前で額のシールを剥がそうとしてギアに指をぶつける。ほとんど給食に手をつけない頑なさは、それが覚悟でなく反射的なものに根ざしているのだとわかる。シャワーを浴びているときにもギアは外せない。BH エグゼリオ付近でシールを剥がそうとするとき、手はもはやシールでなくギアに伸びる。手順への具体的な意識、冷静さが哀しい。現実をみつめすぎるとき、ラルクは夢を見ていない。
- 五話のラストで立案されたことは、ようするにトップ 1 の六話でノリコとカズミがやったことだ。ラルクの意識はそれを受け容れ、ノノの意識はそれを拒んだ。あそこでそれをやってしまっては、トップ 2 はトップ 1 と同じになってしまう、ということなのだろう。それでいいと思うのが、ラルクの「ノリコとよく似ている」、つまり最後には孤独を選んでしまうってことなのかなあと思ったが、なんか違う。もうちょっと別のものだよな。
- あそこで立ち止まったことで六話につながり、そうやって最後に時の流れが集束して、完結するというのが、2 の 2 たる意義か。