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はてなアンテナをちょっと使ってみた感想

しばらく使ってみて、やはり「はてなアンテナ」を公開モードで利用する場合、なるべく登録ページ数を増やさないよう心がけて管理したほうがいいだろうと思った。
ガンガン登録して登録サイトがほかのアンテナと重複している比率が高くなればなるほど自分でアンテナを管理する必然は薄まっていくのだし、その先まで行くとそうしたアンテナをわざわざ自分で管理する理由は「自分でそれをやることによって楽しみたいから」くらいなものになるだろう。
わざわざ自分で管理できるものが用意されている以上「もっとも効果的にそのサービスを享受できるのは自分自身」という状態を維持するのが自然と思える。結果自分のアンテナの登録リストの内容(サイト同士の組み合わせ)はそれなりにバラけていくことになるんじゃないだろうか(非常に抽象的なたとえになるが、個人それぞれが持っているデコボコな内容というものは、その角の高さや角度などはとりたててユニークなものにはならないが、その組み合わせによってできあがる形状は独特なものになりえる、たとえば「歴史小説+お菓子の作り方+自転車+ハイデルベルク人」とか)。自分がなるべく見ておきたいという情報、それ以外のノイズをなるべく省いて洗練していったほうがいい。でなければ誰のためにアンテナを管理しているのか、その理由が不鮮明になる。
このへんの考え方は自分のアンテナをプライベートモードに設定するか公開モードにするかをどの段階で判断するかによると思う。なんつーか、最初に「わざわざ隠すほどのもんでもない」と思うか「わざわざ公開するほどのもんでもない」と思うか、いずれかの性格上の問題っていうか。
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またその特性上はてなアンテナには、

  • 毎日巡回しているサイト
  • 思い立ったときたまに見ればいいというサイト

以上のようなサイトは登録する必要がない。
前者は更新されていようがいまいが毎日アクセスしてるページなのだからべつにアンテナ立てる必要はないし、後者はどのみち見る気になるまでアクセスしないんだから逐一更新情報などわかってもしょうがない。
はてなアンテナはweb巡回においてリンク集やブックマークが負担していた役割のうち「まんなかあたりのサイト」へのアクセスにおけるユーザ負荷を低減するためのもので、両端あたりまでアンテナにもっていっても使い心地はよくならないだろうと思う。その意味でたぶん「恋人アンテナ」でも「他人アンテナ」でもなく「友人知人アンテナ」っつーかんじになるじゃないのかなあ。
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以上のように考えると、はてなアンテナに登録されているサイトはそのアンテナ管理人にとって「あったらうれしいけど、リストにあるどれかひとつなくなった程度では困らないサイト」なのかなと捉えることもできる。少なくともはてなアンテナが示している方向性を展張していけば「サイトが更新されたらアクセスして確認してみてね」であり「そのサイトが更新されるまではアクセスしなくて構いませんよ」となるからだ。
もちろん、実情はそのようではないとも考えられる。はてなアンテナを単純にブックマークやリンク集がわりに使っているユーザも多いだろうと推測できるから、そういうひとのリスト作成思想は上で書いたようなものではないだろうし、そうして作成されたリストから管理者のはてなアンテナに特化した管理思想みたいなものを汲み取ることは難しいだろう。
しかしもしそういうことに無自覚なユーザが居たとすれば、そのひとのweb巡回は恐らく無自覚なままはてなアンテナが持っている仕組みに影響されていくだろう。
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脱線。
むー、なんつんだろ。たぶん、こういったほとんどすべての世の中の形式によって生まれるものと、なくなっていくものは、あるよな。携帯電話の普及によって誰も友達の電話番号を覚えなくなったように。そんなものはアドレス登録して外部メモリで管理すればいいのであって脳みそに記憶する必要はなくなった。魔法の数字を唱えれば空間を飛び越え身近な誰かと声でつながることができるなんていう時代は終わり、そんなものいちいち詠唱せずに水晶にプレキャストしといて一発発動ですよっていう現在だ。たいして違っちゃいないとはいえ、やっぱりなにかは変わっている。
いまじゃ携帯電話なくしたら彼女に電話もできやしない。電話をかけるためには10円あればよかったはずで、それはいまでもやろうと思えばできるはずなんだけど、実際やれと言われても公衆電話の前で携帯電話取り出すありさまだ。そしてもちろん、それでいい。いまはあのころとは違うから、あのころ想像しなかったあまりに多くのことができる、あのころのことができる必要など、ない。
なくすものと得るものは、ほとんどと言っていいほどその筋合いを違えたものになる。