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「Instagram の写真はどれも同じようなものばかりでつまらん」「そうですね」関連

Instagram で撮影されアップロードされた写真はどれも同じようなものばかりでつまらん。まあそうだ。これは web 日記がつまらないのと似ている。読む側として考えるとなぜこんなつまらない日記が書かれるのだと思うんだろうが、web 日記は第一に「書いてておもしろいから書かれているだけ」なのだった。Instagram は撮ってておもしろいから撮ってる、という写真が多い。コミュニティ初期のモチベーションといっていい。それは取っ掛かりにはオモシロカッコイイフィルタによる処理が後押しし、次いでユーザの Instagram 内観測範囲がそれを支持する。見てるだけだとつまらん写真に、やってる者同士だとなんだか掬い上げづらいたのしさみたいなものが浮き上がってくる。たぶんそういう部分に写真共有サービスのユニークな魅力はあって、Instagram はその中で現在かなり成功している部類だ。「ポピュラー」タブに上がっているような写真の撮影を目指しているなら、べつに Instagram でなくてもいい。

  • 確かに Instagram で撮るとどれも同じような写真になるわけなんだけど、それでいったらおれなどは元々同じような写真しか撮ってないので「Instagram を利用することによる劣化」は問題にしなくてよい。それ以前の問題として、そんなことを気にするようなら元の質を向上したほうがいい。で、まあ別にしたくないわけではないので今後勉強するかもしれん。デジタル一眼とかで撮った写真かっこええなーと思うし。まあでも、その感覚を「だから Instagram を使わない」みたいな筋に繋げるのは強引だ。
  • あと Instagram フィルタによる加工(による空気感の均質化)は、元々フェイクエフェクトバリバリの画像をゲームで見慣れている我々などからすれば、むしろ人生のゲームっぽさが増して好感が持てる。
  • たとえば往年によく見かけた「MMORPGスクリーンショットてんこもり日記」」は、どれも同じような写真を上げ続ける仮想ライフログであり、そこにある判断はその日の自分に意味のあるか否かで、それが他人の役に立つかどうかなど日記モチベーションとは何の関係もないのだ。差異は後日の自分にも観測できないかもしれない。
  • ところで、しかし、どれも同じようなものなのに写真を延々取り続けてしまうという恍惚状態への理解はおれの場合現実の写真ではなく(主に車)ゲームのフォトモードからで、まあ PGR とか Forza とか TDU とか。つまりごく最近。
  • あ、でもその前に、デジカメが登場して「くだらないものでもビシバシ撮りまくればまぐれ当たりが何枚かはあるかもしれない」という心理への理解はあったか。もともとカメラ趣味などまったくないのでデジカメ以前にはカメラを欲しいなどと思うこともなかった。デジカメの何といっても素晴らしいのは、フィルム代がかからないのでシャッター何回でもゼロ円であるということだったし、しかしシャッター 1 回毎のコスト意識への経験を持たないことにはたぶん写真趣味に本当には開眼しないのだろう。そのうえで「数こなすためにデジカメ有効」というメソッドが現代的と。
  • もちろんおれは今でもデジカメでなければ写真など撮ろうと思わない。初期投資したあとは、やればやるほどコストパフォーマンスがよくなるあそびじゃないと金もったいないもん。家庭用ゲーオタ的発想。とはいえ Instagram にも妙なコスト意識というのはあって。Instagram は 1 回シャッター押す毎に作業時間が数秒かかるので、(動いてるものを撮ろうとした場合や、あまりカメラを振り回してると不審がられる市街地などでは)案外撮り直しというものは利かない。そこが多少インスタント写真感の醸成にもつながってる。
  • というか、おれが Instagram を使ってて漠然と醸成された脳内ルールに「すでに撮った写真をカメラロールから Instagram へアップロード、という手段は邪道、Instagram 使うならそのときその場で撮る」みたいなのがあって。ようはかっこいいとか美しいとかそういうものを追求するよりも、その時その場みたいなライブ感に寄り添うほうがアプリの性質に沿ってるような気がしたんだよな。
  • あとおれは「本物こそが常に最も雄弁に語る」とは思っていないので、現場に行ったとき実物をしっかり見るためにカメラを使わない、という態度だけが素晴らしいとは思っていない。やっぱ迫力があるものは凄いが、現物の迫力が最大ではない場合だってあるから。場合によるっていうか。まあもうちょっと言えば「べつに現場に行かなくともよい」ってことでもあって、まあそうですね的な話でしかないけど。現場はどこだ的感覚問題。それはあんま関係ない話だったか。

そうやって撮った写真を作業的に日記に垂れ流しておくのは結構よくて。どれも同じような写真の羅列をぼーっと眺めていると、しかし意外に撮影した場所や状況、そして撮影したときの気分みたいなものが思い出せる。おれにしかわかりようがなく、わかったところで大した意味はない形成体。でもまあ個人が撮影する写真というのはそのようなものというかんじもして、悪くない。