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豚キムチラーメン関連

学生時代からこっち、エースコック社の豚キムチラーメンを食って生きてきた。というほどには食ってないけど豚キムチラーメンは貧乏の友であり、貧乏はおれの伴侶のようなものなので、食わない日々が続いても存在を忘れるようなことはなく。ただ主には冬場に食ってるという印象があるな。夏は暑いし。そういやドラマ「踊る大捜査線」の主人公にも豚キムチラーメンを食ってるシーンがあったような気がするがあれも冬っぽかった。うろおぼえ。

ところでその豚キムチラーメンだが「熱湯三分」という文字が見付けづらい。よくみるとラベルのはがし口あたりのところにレイアウトしてある。色が赤と黒でラベル全体に沈んでいる。たまに食うと「あれ、熱湯何分だったっけ?」と忘れるので困る。どのみちカップ麺なんて三分じゃねえかというのは素人考えで、近年は熱湯五分とかもある。四分もどっかで見た覚えが。結構間違えやすいので念のため確認するようにしている。じゃあ実際ちゃんと時間計ってんのかといえばいい加減。五分のものを四分で食ったり、三分のものを二分過ぎたあたりでだいたいよかろうと食い始めたりする。ラーメンは堅麺が好きなので全体的に短めだ。熱湯五分のものを熱湯三分と勘違いして食ったあと、ラベルを捨てるときに「あれ五分だった」と気付くときもある。そんなふうならやっぱりもう全部三分と決め打ちして目分量で食ったほうが効率的だとも思うけど時間の記載は大切にしていきたい。熱湯を注いで何分待つかというのはおれの自由の問題で、熱湯を注いで何分待ってほしいのかというのは開発者の願いの問題で、個別だからだ。

ところで今日豚キムチラーメンを食いながら考えたのは、未来の話についてだった。誰かビジョナリーとか言われるひとが未来を語るのを聞くと興奮するのに、それが現在のものとなったとき感じる退屈さは何なのか。というのはたとえば想像力不足として片付けることができて、未来の話が語られるとき、おれが正しい想像力を備えた聞き手であれば、それを現在の話として実感できなければならないはずだ。現在になるまで実感できないというのは、未来の話を楽しむ能力の不足である、というような筋の理屈は、たとえばゲーム機関連の話題など、界隈を限定した話でいえばわりと肯定する。ビジョナリーに熱狂するのであれば、語られる未来のうちの語られないゲンナリ部分を埋め合わせて、陰影を脳内補完したうえで来るべき現在を待ち受けねばならない。「それは必ず来る」と信じるからだ。

とはいっても、世間一般の話とかにまで広がるとそうともいえない。界隈がデカくなりすぎると陰影補完を一人分の脳では行えなくなる。予言が外れればそれだけの話だが、「よく考えてみるとあれは当たっていた」というような言葉は、探してみると結構あるものだ。けどそれらによく考えてみないと気付けないというのは、それがなかった頃にはワクワクだったのに、あたりまえになると全然ワクワクしないからだ。整理すると、「未来を語る」という行為それ自体のエキサイティングさと、語られる内容はあまり関係がないということだよな。つまり、「十年後、こんなにガッカリな未来がやってくる!」とビジョナリーが壇上で叫んでいる基調講演を、おれは多分ワクワクしながら聞いてしまうのだ。十年後にガッカリすることが確実であってもだ。それはなぜだろう。

この疑問に答えを出すのは簡単なのだが、おれには間違いなく退屈な答えしか出すことができないので、そこで考えることをやめ、豚キムチラーメンを食うことに集中した。