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最近の読書 - 北方水滸伝再読

北方水滸伝再読継続。どうやって読んでいるのかというと、最近はあれだな、夜に散歩に出て、街灯の下とかで立ち読みしていることが多いな。あまり家でじっくり読むというかんじではない。もともとおれは歩きながらものを読むのが好きだし(というか、テンションが上がってくると足を使いたくなるので本持ったまま外に出て近所を歩き回りながら本を読む癖がある)。でもそれでいうと、歩きながらってよりは、立ちっぱなしで読むかんじになってるな。夜で暗いので街灯直下でないと字が読みづらいというのもある。まあ立って読むのと座って読むのとでは、北方水滸伝は立って読む本だろうという気はする。LOTR はくつろいで見るより立って見たほうがフロド一行に感情移入しやすい、みたいなのと似ているかもしれない。

  • 魯智深と魯達を比べた場合に、魯智深のほうが真面目ってイメージがあるわけなんだけど、でも魯智深がなんのかんのいいつつひとを騙してリクルートしているのに対して(史進とか楊志とか)、魯達は結局騙したりとかはしないんだよなー。と、偽造密書の使い方など見ていて思った。
  • 晁蓋のエピソードを追っていて、語られていないエピソードの存在が気に掛かる。序盤での武松に対する「似ている。おまえが背負っているものは、かつて私が背負っていたものと同じだ、という気がする」という台詞、そして九巻での失恋した宋江との対話シーン、この二つから晁蓋には、語られていない悲恋のエピソードがあったのだろうと推測できるわけなのだが、結局本編に書かれていないことなので、わからない。北方水滸伝には続編も出ているが、楊令伝で晁蓋のエピソードがこれ以上展開するというようなことは、おそらくないので、あれはあのまんまなのだろう。感情を自分の胸のうちにだけしまいこんで、ほかのキャラクタはおろか読者にもそれを打ち明けることのなかった晁蓋のハードボイル度について、ちょっと考えたりした。展開上で結局バラすようなものは、秘密ではない。描き出されたものだけが見えて、描かれていない感情の痕跡を辿るのは至難、というのが小説読解の難度設定なのだろうが、なんだろう、「楊家将」での延平と李麗の関係の深読み可能性(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20080415#p2)みたいなもので、読者のためにいろいろあそびのパーツを残してあるのかもしれない。
  • 林冲死亡フラグ叩き折りっぷりはすばらしいのだが、もともと北方水滸伝てフラグで死んだり死ななかったりするタイプの話ではない。というのは以前に書いた覚えがあるんだけど、曖昧だからな、改めて書くと、なんとなく北方水滸伝における生死は、グラップラー刃牙の最強トーナメントらへんの勝敗と近いところで決まってるかんじがするんだよね。どっちが勝つか描いてみなけりゃわからん、死ぬか生き残るか書いてみないことにはわからん、みたいな。筋合いとか因縁とかイベントとかそういうものもありつつ、しかし全然関係のないものや、まったく運命的でないものがひとの命を奪っていったりする。「あれ?」みたいな、意外というか拍子抜けというか、道半ばでの死だ。なにかをやり切って死ぬとか、ここが死舞台だと覚悟の決まった盛り上がりのうえで死ぬとかも、それなりにあるんだけど(「死亡フラグを立てに行って、死ぬ」かんじ)、しかし「物語的な死」のロマンチックさだけで食い足りるような話じゃないのだ。群像劇としての北方水滸伝の醍醐味は「あれ?」系の同志の死による喪失感にこそある。これはねー、このての話としては、なにか得難い感覚だろうと思ったよ。誰が死んでもとにかく生き残ってるやつらだけで続きをやりきるしかない的な気分を、時代小説風に読むことがあるとは。原作付きとか、史実に基づくとかの路線に忠実にやっているぶんには、あらかじめ決定された筋があり、はじまりから結末まで至り続けるという、その安定感から逃れることはむずかしいだろうと思うんだけど、なにせ北方水滸伝はアレンジしまくりらしいので、そういう感覚を描き出すことに成功している。…随分脱線したので林冲に戻すけど、あれだなーひとの生き死にを分けるという意味で、林冲は「フラグによって死ぬ」という部分を突き抜けたのだよね。武松とかもそうだ。なにがひとを生かすのか、あるいは死ぬ気で死亡確定イベントを迎えても死に損ねるのか、運命とも偶然とも違う、曖昧なもの。作者の意志と筆走りの狭間とかなのかなあ。