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最近の読書 - 楊家将関連

何度目か忘れたが「楊家将」読み終わった。といってもまだ五回は読んでない。たいへんおもしろかった。読後感も爽快。ラノベである。斑鳩の練習と平行していたので、なんとなく斑鳩 BGM の中国大河風アレンジを妄想しつつ読んだ。続編も読みたいけど、文庫化まだかな。

漠然と背景にあるのはやはりアルスラーン戦記読みたい感なんだけど、それでいうと三国志でも水滸伝でもなく、やはり楊家将なんだよなと思ったときに、この三作の違いがなんとなくわかった。それぞれの作品で描かれている国家の中で、時代の主役になっている立場が違うのだ。三国志は乱世なので何といっても将軍が主導する時代で、皇帝の権威は失墜しているし(by 曹操)、官僚も力を失い(by 袁紹)武将の下で働いている。水滸伝は体制が安定しているので官僚が強く(青蓮寺)、皇帝はお飾りだけども権威は絶対で、将軍は基本的に官僚の作った枠組みで動く。で、楊家将は国家が出来立てほやほやの時代なので皇帝が直接主導権を握っており、その下で官僚も将軍も動く。で、王様が直接政治をするという体制が、アルスラーンと楊家将では近い。けど、もちろん作品としては結構違う。楊家将の主人公は王族ではなく、その下に付き従う将軍の一族だからだ。

あとは、今回ちょっと気になったのが、延平と李麗の関係。関係といっても、李麗は楊業の妻だから、なんにもないのだけど、「李麗が身の回りの世話をしているときに、楊業と延平が話す」というシーンが何回かあって、そこが引っかかった。ニュアンスとしては「楊業さんは老いてなお盛んです」以上のものではなく、延平はただその場に居合わせてるだけなのかもだが、どうもなーそれだけのことにしては、視点が延平側に寄ってる気がするんだよね。

ハードボイルド文体は、基本的に誰かの一人称として語られる(もちろん作中人物でなく「語り手の一人称」であることも多いのだが)と考えてよいとおれは思っているので、そこに描かれてあることには、別の文体である場合よりも高確率で、なんらかの意味があるのだと思っている。で、読み込める範囲での延平側の心理に、李麗に惹かれているような描写はないし、というよりどう読んでみても全然恋愛感情はなさそうなのだが、この「視点が吸い寄せられ、視線が引っかかるかんじ」は、描かれてある無意識なのだと邪推することが可能で、もうすこし踏み込めるところがある。

延平が四郎に恋(!)の悩みを打ち明けられて、「さらってこい」とアドバイスする場面がある。「女は抱いた男のものなのだ」ともいう。さすが楊家の長男は、落ち着いて見えても言うことが意外にバーバリアンだぜとか思うところだが、そこに李麗と楊業のシーンを絡めると、どうだろう。つまり、李麗は楊業が抱いたから楊業のものだ、ということになる。じゃあ仮に、李麗が楊業のものじゃなかったら?延平は李麗を好きになったのかもしれないのかなーと思う。どのみち死亡率の高い中世で死ぬのが前提の軍人の家系の長男の責任は重く、また(楊業がそうであったように)愛だの恋だのよりもまずは健全な子供、という感覚のほうが大きかっただろうから、延平は妻にする女性を丈夫さ基準で選んだのだろうと思うけど、それだけに、四郎には好きなようにやれよといいたかったのかなとか。なんにせよ、すべてが終わった話であり、続編でも特にそのラインを補完できるようなヒントは拾えないのだろうなと、思うんだけど。