ゲームプレイの豊かさとハード販売台数
ゲーム機の販売台数の話題は往年からゲーオタと切って切れない関係にあったといってもいいが、そこに拠って立つのがゲーオタなのかというとそれは違う。ゲーオタが重視するのはなにより「ゲームプレイの豊かさ」で、販売台数はこれまでそこにあまり絡んでこない要素だったからだ。これまでと書いたのはつまり、今後は絡んでくるだろうからだが、いまのところはまだ途上といったところだ。
- 非ネットワーク時代において、一般的には、販売台数はソーシャルメディアごしに間接作用する要素だった。ハードが何万台売れようが、結局ゲームそれ自体を遊んでいるときつながる人間関係は、マルチタップでつながっている最大数人程度で、それ以上ではなかった。広いつながりを持つのは、むしろゲームを遊んでいない時間のほうだ。教室でゲームの攻略情報を交換したり、新作の話題で盛り上がったり。おれは糸井重里氏の立場や振る舞いから胡散臭さしか感じない人間だが、氏の仕事はさすがに一流であると評価していて、それでいうと「MOTHER 2」のコピーだったかの「おとなもこどももおねーさんも」はそこいらへんの気分をよくまとめてあってさすがだ。ソーシャルメディアの消費材としてのゲーム。数百万本売れるようなタイトルを作るのだとすれば、そこをメインターゲットにするしかない。
- といっても、ソーシャルメディアとしての母数は体験として豊かさに正比例するわけでもなかった。たとえばおれの場合 16bit 世代機の頃ゲームの話をするクラスタでのオタ友のだいたいは MD 所有者で、対して SFC 所有者は(家がゲーム禁止などの一部を除いた)ほとんど全員だったはずだが、結局それら全員とゲームの話をするわけでもないので、それぞれのハードの話で盛り上がれるひろがりとしてはあまり差がない体感だった。交友関係以上のひろがりは「いっぱい」以上としか認識できないというか。ソーシャルメディア消費材の性能は、その普段の交友半径を突破したところにもつながりを作れるという部分が本来的なんだけど、まあ。
- 極端な話をすれば、まわりが JAGUAR かプレイディアしか持ってないような環境では SS や PS もマイナーだし、また友達ゼロのオタなら同時代最大シェアのハードを持っていてもそれを媒介とするソーシャルメディアはゼロという話だ。まとめると、ソーシャルメディアとしての性能の話は「つながりの媒介(媒介は置き換え可能)」を主眼とするものであり、「固有のそれ自体をきっかけとしてつながってゆくこと」を主眼とするゲーオタとはあまり関係がない(そしてそのようなゲーオタがシェア論者からみて「唾棄すべきヘビーユーザ」であることは自明だし、ゲーオタがシェア論の蔓延に嫌気がさしてゲームエゴイズムに傾倒するのは自然の流れでもあった)。この網からこぼれ落ちるのは「つながりの媒介」を主眼としているのにも関わらずゲーム以外の話題がない人々、というあたりになるか。あとまあ「ぼくらが全員馬鹿で貧乏だったあのころ」の共同体幻想の媒介としてファミっ子を自称している界隈(「そのファミコンはたぶんジャンプ漫画とかと置き換え可能だよね?」)とゲーオタが相容れないというあたりもこのへんの筋合いで片付くかな。
- シェア論者にとっての「唾棄すべきヘビーユーザ」の苛立たしさをかんたんに言うと、彼らにとってヘビーユーザというのは「一人あそびとしてのゲームの完成度を要求しつづけている」ように見えているからだろう。ゲームを遊ぶ時間、ゲームだけで幸福になろうとしているというか。対人コミュニケーションの媒介として使っていない。実際には必ずしもそうだとはいえないのだが、立場の違いからそう見えるのも致し方ないところだろう。
- 非ネットワーク時代のゲーオタにとって販売台数がなんだったのかというと、それはマーケット規模であり、リリースされるタイトルの量と質、そして小売店での売り場面積やアイテム数に関係していた。あまり売れていないハードでは売り上げが見込めないので大規模タイトル開発があまり行われず、売場も小さい。売れているハードには大作ソフトが集まるし、売り場にいろんなタイトルが並んでいる。だから、売れているハードを所有しておくことによってゲーオタとして幸福なゲームプレイを享受できる確率が上がる。という理屈だ。PS/SS 時代に盛り上がったようなハードシェア論争などは主にこのアングルで戦われており、現在もその延長戦は行われているのだろうが、多少気質や地勢が変わった程度で、ドクトリン研究は大して進んでいないといってよい。
- そもそもハードメーカーのシェア争いとゲーオタの脳内勝ち負けは条件が全然違っていることに注意。メーカーのシェア争いはライバルメーカーに対してマーケットシェアにおいて優位に立つことだから、考えにいれるべき要素が多くてややこしいが(それゆえ議論が盛り上がりやすいともいえる)、ゲーオタの場合「遊びたいと思ったゲームを満足に楽しむことができる(た)かどうか」の 0/1 なのでとてもシンプル(なので話がつながらず、話題として消費されずらい)。売れてるハードの人気タイトルは入手が容易、売れてないハードのマイナータイトルは出回らないので確保がむずかしい、というように条件を読み換える必要がある。
- 単に「貧乏だから全部のハードが買えない」というのは、趣味性と関係ない生活の話なので(最近だと「未成年だから Z 指定の残虐ゲーが買えない」みたいな障害もあるだろう)、オタとしての戦いではない。機会希少性や確率、また熱意や根性らへんはオタとしての自分経営のメタレイヤなので、これまたゲーオタとしてのアングルだけに納めるのは無理がある。そこを全部ゲーオタでひっくるめて煮詰めていくと、破滅型のゲーオタが出来上がるという仕組み。もちろんそれはひとつの美しい到達点とでもいうべきものではあるが…。
- ついでだが「売れてるハードのタイトルは売場で買い逃す確率が低い」問題は、諸般の事情により現在瓦解しているといってよい。ハードが売れていようが売れていなかろうが、売れ筋タイトルの在庫だけが大量にあるという状況が増え、販売力の弱いメーカーのタイトルは出荷数が少なく、売場に長期間置かれることも少なくなった。多アイテム少数在庫制(または無在庫でオーダーが入ってから手配)の現場はネットが主流で、それも「とりあえず金さえ積んどけば手に入る」というわけではなく、ある程度準備やタイミングの読みが要求される。
- あとまあ近年に限った傾向でもないが、いはゆる大作ソフト、予算をかけた開発規模の大きいタイトルがゲーオタを必ず幸福にするのかというと、そうでもないという話もある。いはゆる「FF は誰が買っているんだろう」問題とかは、おれの記憶では FF8 の頃には話題としてあった。
- とはいえ場のオタ純度が十分に高ければ、副次的であろうがなんだろうがやり込みの果てになにかとてつもなくへんな状況を演出してしまったりとかもして、オタから逸脱することなくゲームプレイ以外の部分にこそ見所があるみたいな話によじれていく場合もなくもない。エロゲー論壇界隈とか。あれこそ極めて孤立したゲームプレイと、そのサブコンテンツとしての議論が溶け合ったオタ芸の一種といえるのかもしれないが、まあそのへん掘ってもゲームプレイの話題が全然ひろがらないのでゲーオタ的な興味があんまそそられない。ここで「エロゲーはゲームか」話とかおっぱじめる気は全然ないので流す。
- で、ネットワーク時代において、販売台数はゲームネットワーク規模を直接規定するようになる。そしてネットワーク世代のゲームプレイは、ネットワーク側の質量と相関関係を強めていく。もちろんこれも非ネットワーク時代と同じく、でかければでかいほどいいという比例モデルではなく、大概は一定量いればそこから先は大差なかったり(先に挙げた「十分な交友関係が出来上がってしまうと、それ以上は「いっぱい」としか認識できない」問題と同じだが、マッチングの仕組みにもよって大雑把な印象では、世界で同時期 10 万人程度遊ばれてるタイトルならそれほど不自由を感じることはなく、50 万人を超えると対戦相手に全然困らないとかそんなかんじ)、場合によってある種の資質を持った層が参入してくれなければそれ以外が何万人居てもだめだったりとか(なんか「とりあえず土俵作っといたのであとは CGM に期待」みたいな投げっぱなしタイトルではこうだろう)、いろいろ。ともあれ、それら可能性を担保する数字として、販売台数がゲームプレイに対してかなりベタに影響を与える時代に、ようやくなった、あるいはなりつつある、というのが現代だ。
- 非ネットワーク時代からの大きな転換は、「これまではゲームを遊んでないときにつながる人数のほうが多かったが(非ネットワーク環境ではモニタの手前側がグローバル)、これからはゲームをあそんでいるときにつながる人数のほうが多くなる(ネットワーク環境ではモニタの向こう側がグローバル)」ということ。オフラインのつながりは多くても数十人程度だと思うが、ゲームネットワークには同時数万とか数十万とかの人間がひしめいているわけなのだ。まあネットワークの設計次第ではそうならないが(Wii とか)、とりあえず XBOX Live では「なんでもいいからおまえらつながっちまえよ」てかんじで、全員おなじどんぶりに放り込むかんじだな。
- さらに十分に高度なゲームネットワークは、ソーシャルメディアの基盤にすらなりうる。ゲームに使えるインフラは、当然ゲーム以外にも使えるからだ。この部分はまだ現代家庭用ゲーム機において、できるべきことがすべて実現しているとはいえない。この分野でへんなアイディアがでてきておもしろくなりそうだと言われ続けているのは携帯機のほうだが、据え置き機でも次世代機でさらに強化されることは疑いない。たぶん単体で(自閉的に)完結するタイプの発展でなく、なんかユビキタス的に「ゲームで生じるネットワークも、ソーシャルネットと混じりあって私生活を包み込む」というかんじになるか。それつまり具体的には XBOX 360 上で実現している「Windows Live ID によって連携する各種サービスに取り囲まれた暮らし」とかを想定しての話だが。360 でゲーム部分のサービスを高品位かつ均質に(=イコールコンディションで)提供し、それ以外のなんかやりたきゃご自由にどうぞという部分についてはユーザが自由にカスタマイズできる環境に投げると。そのつながりによって、ゲームにソーシャルメディアを持ち込むことも、ゲームをソーシャルメディアに持ち出すことも容易だ。Halo 3 が Bungie.net と連携して実現したゲーム体験は、その方向で現時点最高の到達点であると思える。
いまのところ、ハードの販売台数と関係があるといえるくらいのネットワークサービスを提供できているのって XBOX 360 だけなので、国内を見るといますごくへんな状況なんだよな。日本で一番売れていない現行据え置き機である XBOX 360 が、結局一番ゲームプレイを豊かにしているという。次にがんばるべきなのは PS3 だと思うのだが、どうかなー。任天堂社は、がんばる気あるのかないのか微妙。なんか話が中途半端になってしまったが一旦ここで切る。