空気読めるけどつまらないひと / 空気読めないけどおもしろいひと
知り合い同士の雑談を流し聞きしていたら、空気読めるけどつまらないひとと、空気読めないけどおもしろいひとの、どっちがいいかみたいな話になってて UZEEEEE!べつにおれたちにしてからが大して空気読めたりおもしろかったりしないだろうに、なに脳内でコミュニケーション界の最強トーナメントを想定して是非のラベル貼ってんだこの野郎という話だ。あと空気にせよおもしろいにせよ基準が曖昧というか場当たり的に相対的に郵便的に不安定なんだよそういう雲を掴んで絵を描いてみせるような話をこねくりまわしておまえら一体なにがしたいんだ、そうですね、暇をつぶしたいんですよね、おっしゃるとおりです、まったくです、というかんじで一人納得してかしこまってみた。
結局「空気が読めないうえにつまらないひと」だけはちょっとキツいけど、それ以外だったらべつになんでもいいわけだよなという話に落ち着いたようだった。あと、社会における基本的なひとの縁の大概は、空気が読める読めないとか、おもしろいつまらないとか、そういう基準によって取捨されるようなものではないので、あまりそういう基準でばかりものを見るようになるときついんじゃないかなと思った。ネットごしの人付き合いとか、趣味の宴会サークル内とか、そういう(暮らしからはみ出した余剰の豊かさとしての)薄い関係性の話とかに止めておくほうがよい。自由への覚悟みたいなものを持ち合わせているひとであれば、そういう基準でも自分の暮らしのデザインを大幅に動かせもするだろうけど。
あと「空気読めるうえにおもしろいひと」と「空気読めないけどおもしろいひと」って、じつはおもしろさでいったら多分「空気読めないけどおもしろいひと」のほうが上じゃね?みたいな話になったとき、「いやそれは空気読んだうえで読めないふりしておもしろいことを言うひとが、長い目で見たときに豊かじゃないかね?」とか割り込みかけたけどやめておいた。ムラそれぞれにある対戦ダイヤグラムは、場の空気感そのものであるから、あまりいじるべきでない。これがガチ勢ならバーチャ 2 リリース当時にタイムリープしたら初日から台湾ステップ使いまくりかもしれないが、それはおれのやり方と違う。