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最近の難題

東京湾 | 060813

むかし「あたまの体操」だかなにか、クイズというかなぞなぞというか、そういったかんじの本で読んだ問題に以下のようなものがあった。記憶曖昧。

A 社の TV で B 社の TV の CM を見た場合より、B 社の TV で A 社の TV の CM を見た場合のほうが、CM の中の TV の映像が綺麗に見えた。さてこの場合、A 社と B 社どっちの TV がより映像性能が高いといえるか?

答えは忘れた。個人的には B 社の TV を選ぶだろう。

で、最近引っかかっていることのひとつが、

  • おもしろいひとがなにかの作品について「これおもしろいよ!」て言ってた場合、じゃあおれも見てみるかと自然に思うわけなんだけど、あんまりおもしろくないひとたちが「これおもしろいよ!」て言っているような作品があったとき、それを自分も見てみるべきかどうかの判断

これむずかしいんだよな。おれはこれに関して「無理のない範囲で見れそうだったら見る」というふうに決めうちしてるので、悩むことはないんだけど(←実態としては、まあ半々くらいの確率で見たり見なかったりする)。なんでそう決めてあるかといえば、これは「なにかを決めているようでいてじつはほとんど意味のない(保留同然の)決定」で、ようするに考えはまとまってないんだけど単に保留だけするというのは気持ち悪いので、とりあえず「決めた」という体裁を取り繕うためだけにそうしてあるという話だ。結局おれの中で本当には対処法が決まっていないわけなので、喉に引っかかり続けている。現状取れる方法のうち最もエレガントなもののひとつに「そもそも他人の感想から、なにかを見る見ないの判断をしない」というのがあるけど、これは自分のオタ感覚を無根拠に確信できる時期にしかリアリティのない方法だ。おれはもはやその時期ではないから、それ以外を検討しなければならない。

余談だが、受け取る側の人間の「おもしろさ」や「おもしろくなさ」がどういうニュアンスとして解釈されるべきかという前提の問題もある。レンジを広く取れば、おもしろくないひとというのは、おもしろがる能力の低いひととかになるかな。おもしろがる能力は、高すぎれば高すぎたでまた自己啓発っぽくて怖いんだけど。まあなんかベースパフォーマンスに対してほどほどにはなにかをおもしろがっているありさまが見れたほうが、そのひとのことを多少でもわかったような気になって安心する。普段から感情線の振れ幅が激しいひとについては、なにかをおもしろがってるありさまを見る機会が多いだろうし、ほとんど抑揚を感じさせないほど自己管理の行き届いたひとは、なにかをおもしろがっていても揺らぎが僅かなので注意深く観察していなければ気付かなかったりする。それと別の筋合いから、なにかをおもしろがるにしても、狭く掘り下げたり、幅をひろげたり、持ってるポテンシャルに応じて人間のおもしろさは様々だけど。やはり余談だったな。