マルドゥック学園の犯罪!
こないだ読んだ冲方丁「マルドゥック・スクランブル」に関して、まあ全三巻のうち一巻はほぼ予想通りの構成だったけども二巻ではじまったギャンブル勝負をまさか三巻の途中まで引っ張るとは予想していなかったのでそこんところが意外でおもしろかったのだが(=バロットはギャンブルを含む色々なことをやっていく過程で必要なものを獲得していくのかなあと思っていたが彼女はカジノだけで必要なことを段階的に取り揃えてしまった、つまりカジノは話の中で何段目かの階段のひとつに過ぎないだろうとおれが偏見していたところ実はそこは巨大な踊り場であり彼女が変貌するためのステージだったのでありすっこけた、場面の数を増やすより人の掘り下げをしたほうがいいというような決断があったのかなあと思ってみれば、この本はずいぶん映像寄りなイメージがあるけれどもその「映像っぽさ」はアメリカ風じゃなくてかなりヨーロッパ風に寄ってる印象があるかな、フランスあたりでファンタスティック映画一本たのまーみたいな)、まあそこいらへんのことは置いといて、ラノベ(?)でギャンブルといえば新城十馬「蓬莱学園の犯罪!」があったなと思い出したので久々に読み直してみた。
この二作はどちらもギャンブラーが重要な役割をもって登場し(「犯罪!」などは一方の主人公が女賭博師だ)、そして主人公(たち)の行うギャンブルが物語の重要な鍵を握り(つまり双方ともギャンブル描写をカットすると物語をまったく違ったかたちで展開し直さざるをえないか、またはそもそも成立しない作品であり)、そしてそうでありながらその物語はギャンブルそのものを主題としていない(作品的に主題とするものを「ギャンブル以上」として扱っているように感じられる)という点で共通している。が、それ以上の共通点は、まあ、あまりない。
まあともかくなぜマルドゥック・スクランブル後に蓬莱学園の犯罪なのかといえばベル・ウィングが銀髪だったからだ。ソーニャもそうだ。銀髪の女賭博師。ああこれも共通点のひとつといえないことはないのかな。でも博打に長けた人間にイメージしやすい色っていうのは「銀」になりがちな気もするのでとりたててユニークな印象ではない。共通っていうより一般だ。福本伸行「銀と金」の銀さんとかもそう。いぶし銀ともいう(べつに博打関係ないか)。
もちろんソーニャは老婦人ではなく学園の生徒であり(てことは女子高生?)、ベル・ウィングは眼鏡っ老婦人ではなく裸眼だが、マルドゥックにベル・ウィングが登場したときに自然と連想したのは「おばあさんになったソーニャを「風と共に去りぬ」風にしたひと」であり、だからおれはベル・ウィングはなんとなくロシア系だろうと思って読んでいた。でなければ南部アメリカ出身。
が、こないだの読書会で「ベル・ウィングてネイティブアメリカン居留地出身っぽいかんじがー」みたいな話があり、言われてみればああーそういえばそうっぽいかんじがーと納得したのでそれはそれ。精霊信仰っぽさとか導くけど手は貸さないかんじとか確かに。スタートレックの TNG にもそんなひと居たな。第7シーズンで。あれは黒髪のおっさんだったけども。
で、これはべつにソーニャ関係ないけどもベル・ウィングは作者のひとの手に余ってるかんじのキャラクタだなと読んでて思った。単にかっこよくそれ以外がない。言うことやることすべてほかにないというくらい決まっているが、ブレがないので生きてるかんじもまたしない。実は既に死んでいるか(=現世と関係なく必要なとき必要なだけ存在する幽霊)、または生まれないまま老成した(=物語のために存在する機械)ような印象がある。
彼女はバロットに彼女が必要とするものをなにも与えなかったしバロットからなにも奪わなかった。チャンスはまあ、与えたうちに入るのかもしれないが、それはベルが与えなくてもバロットが自力でモノにしたわけだし、どちらかといえばそれはイコールな「縁」だったと思える。ベルがバロットに、その気があるなら自分の技を教えてやるとまで言うあの台詞がまた決まりすぎていて引っ掛かる。要するにこうだ、「自在の完全体に変貌してゆく素人少女に対し徹底したプロとしてある者からの最大級の賛辞、共感、隔絶、(他人としての)好意、ということはこれは「それを言われたときただ感謝と敬意だけを表し、実際ホイホイ言ってそのあと彼女に教えを乞いにやってくることは結局ないような人物に対してのみ贈られる台詞」としてあるわけなので、ベル・ウィングは仮に将来バロットが賭博師見習いとして自分の許を訪れることがあったとしたら、ちょっと残念に思うだろうね」。そして自分がちょっと残念に思うことにさえベルは頓着しないだろう。
綺麗なものを見たのでただ「綺麗だ」と言った。そういうかんじ。与える奪うとかではない。勝つことでも負けることでもない。
ベル・ウィングは物語中の役割の中に完璧に収まっているかんじがする。任じている?課している?いや違う、ふつうにそうだ。できすぎている感覚。それが引っ掛かる。なんというのか、つまり、作者のひとはベル・ウィングを信じていないかんじがした。おれが信じられないだけなのかもしれない。
まあ固いのはボイルドとかアシュレイとかもそうなんだけどもあっちにはなんというかそういう感覚があまりない。これは描写に差があるという意味ではなく、違った角度での弱さ(=やわらかさ)に対する納得を読者であるおれがあらかじめ持っているからだ。つまり、男だから。ただし「誰が男だから固くてもやわらかいと感じるのか」についてはいまいちよくわかってない、ボイルドやアシュレイが男だからなのか、作者の冲方氏が男だからなのか、それとも読んでるおれが男だからなのか。どれか、いくつか、全部か。
で、「マルドゥック」と「犯罪」だけども、ギャンブルを「使っている」小説としてそれぞれのギャンブルに対する捌き方というか抜け方がまったく違ったものになっているのも興味深い(ジャンル的な意味もあるがそれ以前の問題として両作は各個に「博徒小説ではない」ことがふさわしくあるという点)。
主人公自身が賭博師である「犯罪」のほうがまあギャンブル色は強い印象があるけど実際には「犯罪」で博打を行っているシーンはあまり多くない(?)。というか直接的な描写ではなく、だんだん世間が博打そのものに傾いていくというおもしろさで見せている。「最後までやる」の意味を蓬莱学園という舞台に実体として落とし込んでいくために、それがあるかんじ。最後まで「やる相手」というものが疑いなくあり、対他人としての関係に収束していく。
じゃあ全3冊のうち実に1冊分程度(以上?)の紙面を博打に費やしている「マルドゥック」のほうがギャンブル寄りかといえばそうともいえない。目的のための手段であり、そして選んだ手段について迷うことがないというかっこよさの道具立てとして(その意味少女売春についても描写としては深く触れていそうだが実際には軽いかんじで)それがあるようにも感じられ、ギャンブル自体のディテールに潜っていってもちっとも溺れるところがない。バロットはまっすぐに生きている。このまっすぐさが危うさでもあるかんじはするが、それは博打の危うさとは違う(というか博打でなくとも十分に危ういのだそんなものはつまり)。
両作について、それもギャンブルであると言ってしまえばまあ、ギャンブルと言えなくもないかんじはするが、たぶんそのへんは重要じゃないと思う。ともあれこのへんの根本にあるのが作品性なのかそれとも作家性と言ってもいいのか読み込んでいけばけっこうおもしろいんじゃないかなと思うんだけど、うー、よくわからんな。知的好奇心の生まれや育ちによってある程度ものごとに対するアプローチの仕方は推測可能になるはずとは思うんだけども…。