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暑い

暑いのでクーラーのお世話になっているが電気代が心配なので、「違う!ここはサウナだ!サウナ室だ!居ながらにしてスパリゾートが立ち現れてくるのだ!」と念じて汗をダラダラ流す競技などにも余念がない。どっちかっていうとデスクトップ PC とか 360 を起動するためにクーラーつけるというかんじだなー。熱に関してはおれより機械の安全優先。おれが熱暴走しても死ぬことはなかろうと思うけど PC や 360 は暴走するとどっか壊れるかもしれんしな。金が飛ぶ。風が吹く。

愛は地球を救わないけど金は地球を救うよね、みたいな話あるけど、あれはどうなんかなー、金利は基本的に増えていくいっぽうのエントロピーであるという信頼によって経済的繁栄を相互保障しているかんじだから、金に頼ってばかりだと温暖化に歯止めはかからんのではないか。エコというよりロハス系の発想か。あるいはパパ型の解決(パパは「新しいプレゼント(大きなぬいぐるみとか新しい掃除機とか)を買って帰る」ことで家庭円満を維持しようとするため、パパ型の解決に頼り続けるといずれ家庭内はモノで溢れかえる、というおれ概念)と相性よさげな。

結局カウボバとサムチャンはどっちがおもしろいんだよ選手権

カウボーイビバップサムライチャンプルーは、スタッフがかなり被ってる系の作品だけども、じゃあどっちのほうがおもしろいんだよというのはあんまり考えに上らないというか、どっちも似たような…いやいやいや。それでいうとマクロスプラスガンダム 0083 はどっちがアレなんだよ(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20080716#p2)みたいな筋からもスタッフが被ってんだよね結構。で、このところで両方とも全話視聴してみて、引き出し・幅・リプレイバリューなどから、ビバップのほうが出来が上ということになるかなーと、思わなくは…いやしかし、ビバップはどう見立てても最終的には涸れた安心感みたいなものに落ち着いていってしまうので、展開の別例としてチャンプルーも押さえといたほうが…だからどっちだよ結局のところは。過去をひきずる男たちと過去を探す女(たち)の珍道中、男は因縁と向き合い、女は父親と対面。そして未来へ、または旅の終わりという分岐。それぞれのコンフリクトが、交錯はするんだけど根本的には個別解決するのと、多少絡み合って解決するという分岐。全体の印象は、ビバップは二十代後半でチャンプルーは二十代前半。

というかんじでしばらくウダウダしていたのだけど決まった。ビバップでもチャンプルーでもなく、たまたまテレたまで再放送していた「あしたのジョー 2」の圧勝。いやー、ジョー 2 おもしろい。すごい。スパイク(山寺宏一氏)もムゲン(中井和哉氏)も悪くはないけど、とにかくジョーがかっこいい。あおい輝彦氏の貫録勝ちというかな。造形がかっこいいとか台詞がかっこいいとかではなく、ジョーがジョーっぽいというだけでかっこいいんだから、これには勝てん。ていうかスパイクのかっこよさの系統って、ルパンっぽさかといえばそうではなくて、たぶんジョーのかっこよさ系統がかなりの濃さで入ってると思う。「たぶんこれを見た彼女は「ルパン III 世だよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い」ってかんじだよね。馬鹿違うよ確かに全体的にはルパンっぽさとかもあるんだけど、主人公格メインのスパイクに関しては、ジョーの何番煎じかなんだよという。死に損なって生き延びたジョーの夢物語なんだよ。ともあれそんな事情で、オリジンには勝てん。あおい輝彦氏がスパイクの声やっていたらどんなことになっていたか。いや、そういう妄想は邪道よな。ジョーはジョー。20 世紀に死んだ。スパイクはスパイク。醒めない夢を見ている。

最近の読書 - 北方三国志再読

董香が死んだ。張飛も死んだ。幽も。張飛の死は、北方水滸伝のような「あっさりとした死」ではなくて、物語的にじわじわ展開してきていろんな絡みもあったうえでの、いはゆる「盛り上がった死に方」のひとつということになって、それはリアリティというより物語寄りで、ひとの情動は物語的な感動よりリアリティ的な感動のほうが強いと思っているので、今回張飛の死によって受ける感傷はそれほどでもないだろうと予測していたのだけど、結構ショックだったかなー。意外。というより、物語的な感動を受け止めるという行為を最近あまりやっていなかったので(オタクやってると感動用に作ってある雑な起伏とか受け流す技術だけはやたら磨かれる)、まだこういう読み方ができるかとちょっと驚いたようなかんじ。劉備が死ぬ前に、張飛の死をもって北方三国志の人情部門が全滅したという気がする。ひとに感情はありつづけるが、それが物語を動かすことはもうない。