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最近のインターネット

  • ひとがなにかを「よかれと思ってやっている」のは当たり前で、悪意でやってることは論外なので(←そこにはなんの弁護も要らないというか、悪意でやるからには自立していなければならないので、論じられるべきことでもない)、「誰かを助けたかった」「行為によって悪目立ちすることを狙ってはいない」みたいなかんじで、基本にある意図の善悪に論点を持ってくのは、よっぽど話すべき内実がないか、でなきゃ行為についての議論から筋を逸らしたいんだろうなという印象にしかならない。「善意が善行につながることは滅多にない(ので善意というのは基本的にグロテスクで適切に調理しないと食えない)」みたいな諧謔でつながるソーシャルネットワーク、みたいなもののほうがマシだ。
  • ようは、褒めるべき点がないものを褒め殺すとき以外に「この善意はすばらしい」というフレーズは出てこないので、それが出てきたときはそのように読むのが村社会の読解力ということだ。
  • 「言葉が足りてなかった」とかもまあ、「言葉を尽くせば(行為の結果でなく行為に至った意図を)わかってもらえる」って意味だから、話題逸らしの一環だし、そういう意味でブレはない。「いや善人なのは当たり前だから、行為を問題にしてるのよ」みたいな方向に行っちゃうと困るときの肉食系とかリア充とかなんとか、そこいら界隈の常套句よね。「(適切な時間と字数を費やせば)わかってもらえる」という態度自体が傲慢に映るし、苛立たれるわけよ。逆に、無限の時間をかけても相容れない立場はある、みたいな絶望感から出発してる立場もまた、ひとをウンザリさせるんだけど。