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最近のインターネット - 311 でオタクが変わる関連

「311 でオタクが変わる」といって連想するもの関連。

  1. オタクイズデッド騒動。結果を見るまでもなく、おれの観測でいえば、オタクが死んで困るオタクは居なかったよねということになるんだが、「オタクが死んでも困らない側からは、オタクが死んで困る側を観測することはもはやできない」というディアスポラ感くらいは持ってるので、まあわからん。やっぱ死んだのかもしれんし、死んだか死んでないかはともかくとして、確実に移り変わってはいくよ。311 がどうであったにせよ。それと関係あり、なくもあり。
  2. 予言の自己成就という言葉。変わるのだと思ったひとは変わって、それによる影響も多少はあるのかもな。
  3. ちなみに「123 でゲームが変わる」は初代 PS のコピー。発売日が 12 月 3 日であったことから。PS2 は平成 12 年 3 月 4 日。PSP は 1 月 23 日。

あと竹熊健太郎氏の、この発言には何か説得されるものがあった。

2)つまらない現実よりも面白い虚構を!初期オタク文化はこの諦観の上に生まれている。今回の震災と原発事故を受けて、オタク第一世代が俺を含め軒並み転向したかのように冷静さを失っていると感じる下の世代は多いが、当然だ。もう二度と来ることはないと思っていた「でかい一発」が遂に来たのだ。

先達は、終わりなき日常が、本当に終わらないことに苦しんでいたのか。おれの世代とかは、ほれ、世紀末チルドレンだから、終わりなき日常でありつつ、どっかでブチっと終わるもんだと思って生きてきたんだよ。まだ終わってないけどね。あるいは、たとえ世界が終わっても、それはおれの日常の終わりを意味しないと思えるだけの強さを手に入れたかった。つまり「終わってほしくない」という欲望と「とはいえ遺憾ながら終わる」という諦観の隙間を心地良く補完する「永遠」、そして永遠と戯れつづけることを潔しとはしないマッチョイズム、しかし永遠なき世界を生き延びうるマッチョな心身を獲得することは物理的に能わず。とまあ、そういった状況に陥りながら如何にあそび抜けるか、というゲームだった。

だから、20 代の頃のオタクとしてのおれのキーワードは「いつまでもこんなことは続かない」だったといってもよい。このクライマックスが終わってほしくはないけれど、終わってしまったときのために、心だけは準備してきたんだよ。文化的に遭難しても当座を凌ぎうるだけの最少装備の確認を日々怠らないとか、オタクとして 30 歳を迎えるためとか、小目標を積み立ててね。そうして迎えた 30 代を、おれは結局どう生きているのか、まだよくわからないが。続かないなりに、食い延ばし方はある…というかんじか。いまんとこ。不本意だ。しかしこの不本意感も、坂道転がってくうちにどこかで外れちゃうんだろうかな。