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the social network 関連 2 - ザッカーバーグ非モテ説への部分的な違和感

引き続いて(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20110206#p2)。

本作は、「リア充ソーシャルへのルサンチマンを抱えた非モテであるザッカーバーグが云々」みたいにザックリ説明されがちなかんじなんだけど、では(映画の)ザッカーバーグがいはゆる「非モテ」なのかといえば、なんだか部分的に引っかかるのだった。…というのは、ネットにおける用語「非モテ」周辺の経緯を踏まえた話になる。で、その経緯の話というのは、いずれちゃんとまとめておく予定だったんだけど、まだまとまってないので、うまく説明できんのだが、まあ長い話なので端折っていこう。

  • 一般語(?)としての話であれば、単にモテていないやつのことを非モテと呼ぶことに違和感はない。だからインターネットをあんまりやってないひとが「ザッカーバーグ非モテだ」と言うときに、おれはとくに反対しない。
  • しかし、インターネット、殊にはてな非モテを取り巻く一連のムーヴメントとそれなりに近しく過去 4,5 年を過ごしてきたネットワーカーが「ザッカーバーグ非モテだ」と云うなら話は別だ。それは全然違う。
  • はてな非モテを前提とした場合に言われる「非モテ」は、「モテていない多数の中の、「モテていない状態」そのものに意味付けをしたがる部分集合」を指し、またその属性自体への共感による(横の)連帯を希求する人々、というふうにもなる。そしてごらんのとおり、ザッカーバーグはそんなものによって駆動してはいない。そういう人間を非モテと呼ぶなら、それはポジショントークだ。
  • 強いて非モテ界隈の分類でいうと、ザッカーバーグは幻獣クラスの「真の非モテ」だ。だが真の非モテ非モテ言説空間にコミットすることは決してないから(「そうしたものに気付くこともない」のが成立条件のひとつだからだ)、やはりそういう人間を非モテ言説に絡めて称揚するのは筋が悪い。…というか、それより問題なのは、そうした言説でつながっていくような時代がとうに終わっているということだ。
  • ザッカーバーグマッピングされるとすれば、非モテがどうのとかいう古地図ではない。この数年で界隈地図は書き変わった。彼は「リア充時代の冴えないやつ」なのだ。ウィンクルボス兄弟はリア充、よかろう、そこに異議はない、であればこそザッカーバーグを「非モテ」として対立させる世界観は強引だ。用語「非モテ」を核として形成される世界観は「リア充」を核として形成されるそれとは似て非なるものだ。江戸と東京みたいな。界隈をよく知っていればこそ、世界観闘争には敏感であってよい。

とかなんとか。

あとは、「ソーシャルネットワーク」はあれだけキャラ妄想キュンキュンな映画だったのに、おれに観測可能な感想界隈がキャラ萌え語りの多様性に乏しくてちょっと不満だ。おれの想定と逆カップリングのひとの感想とかがインターネットの向こう側にはあるはずなんだよ。読みたい。おれはソーシャルネットワークに映り込んだ世界を知りたいのだ。いやべつにそういうキャラ萌えトークに限った話ではなくて、たとえばー…、「ココにいるよ!」「私に××しなさい!」などで有名な遠山えま氏による「ソーシャルネットワーク」評とかも知りたいな。というか遠山えま氏版のソーシャルネットワークなど妄想する。「非コミュ女子な主人公がリア充生徒会長に告白→玉砕、失恋の傷心から学校裏サイトを立ち上げ、大人気になるも管理者だとバレで村八分、その窮地になぜか擦り寄ってきた生徒会長が「リアル」的な学生向け web サービスの立ち上げを持ちかけて…」とかかな。