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ハルヒのような話をいくつか読んでて気付いたんだが

おれが最も御免こうむりたいのは「興味を持っていない厄介事に付き合わされること」なので、ハルヒのような女が嫌いだし、許さん。書いてある人物に対して読者の取る態度として許すもくそもあるか、という筋合いもあるからちょっと解説が必要か。おれの場合なにかを許さないとはいっても、べつに抗議行動を起こすとかそういう話ではなく、単に「許さない」という状態を固定するだけで何もしないということなので(←「究極超人あ〜る」の「許さないけど許さないだけ」という態度から学んだライフハック)、まあ「こいつ死なねーかな、なんかアイスキュロスの身代わりとかになって…」とか思いつつ読むだけのことだった。とはいっても二巻のハルヒにはほんとむかついたので(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20090426#p1)、当時アニメグッズ屋から「殴ったら景気よく粉々に砕けるハルヒヘッド 4,000 円〜」とか言われたら買ったかもわからん。

そんなこんなでラノベなど読み、「AURA 魔竜院光牙最後の闘い」(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20080803#p2)には普通に感動し、あと「とらドラ!」はー、要約引用すると「全体的に感じている「どうもラノベの主人公ってのは、基本的によく知らんやつから命令されたとき、とくに不都合がない限りにおいて、とりあえずそれに従う」タイプの人間が多いのかもわからんねと、読んでいて思って、そしておれはそのタイプの人間ではないことから、ラノベ全般に感情移入がむずかしいのかもしれない」(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20080826#p1)という理由で、いまだにアニメ版見れてないけど引っかかっていて、とかなんとか、それらの作品ではそれぞれにエキセントリックなヒロインがフィーチャーされているわけなんだけど、どうも焦点はそこではなかったね、ということが、今年の春頃あたりから、ジワジワわかってきたのだった。ということを、たぶんまだ書いてなかったので、改めて書いとく。

以前は、ああした作品を読むことにより自分に期待される変化が、「ハルヒのような女を容認すること」だと思っていたんだよね。へんな書き方になるけど、おれはこのての作品に触れるとき、「これ一冊読み終える頃、こいつ(涼宮ハルヒなり佐藤良子なり逢坂大河なり)を好きになっていなければ、正しく読めたということにはならないんだろうな」とか思いつつ渋面で表紙を睨んでいたわけだ。まあ大概は失敗しない。そりゃヒロインなんだから魅力的に書いてあるし。でもたまに失敗して、「おれはこの作品の客じゃなかったな」と消費者的に理解し、同時にオタクとして消沈する、ということを繰り返してきた。でもどうやら、そうではなかったね。ヘッドフェイクだった。あたりまえの話なんだが、重要なのはヒロインじゃないんだよ。主人公だ。キョンであり、佐藤一郎であり、高須竜児だ。「未熟な迷惑女を容認する話、にみせかけて、実際には彼女に振り回される未熟なヘタレ男を許し、認めてゆくこと」が、おっさんオタのラノベ読書としては重要だった。「家族でも友人でもないけど、ときにはそれ以上に身近な存在となりうる他人」としての、創作上のキャラクタに対してそれをやっておくことは、(家族や友人に対して同じような対処をする際の予備体験として)実生活上でも決して無意味ではないし、あるいは己のなにか救いようのない部分に対しても届く処方箋になりうるかもしれない。ネットに目を移せば、こじらせた女子高生にはわりあいチヤホヤされるチャンスが準備されてる気がするけど、こじらせた男子高生てブッ叩かれるだけで終わってたりして、ああいうのがちょっときついよなーと思ったりしていた。それとおなじだ。来た道を認めなければ、行く道は照らされまい。