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見たいものを見ること関連

  • 自分が感じている気分について、誰かの言葉で腑に落ちるという体験は結構あるわけなんだけど、よく思い返すと、そうした体験には周期があったような気がする。単純に本を大量に読んでる時期には他人の言葉が多いので納得機会が多いってのもある。この十年ばかりは、アンテナの低さと日記習慣化のコラボでだいたいは自分の気分は自分で書くというかんじになっている。でも個人ニュースサイトとか真面目に見てた時期には、やっぱりそれなりにひとの文章で腑に落ちる感覚はあった。ので、今のように情報増えた環境だとアンテナ次第でビシバシ腑に落ちそうでもあり。
  • …と思ってたんだけど、どーも最近そういうのと別にしていまいち腑に落ちるチャンスを逸してる感が強まってきた。のは当たり前で、ようするにこの歳になるまでオタクやってるよーな人口が年々狭まってくるわけなので、同年代(≒おれと似たような人間である確率の高いやつ)が抱えてるよーな気分が、あんまおれにまで届く範囲に言葉で発信されてない。そんなわけで、アンテナを高めに調整するのと同時に、これからの無補給戦を戦い抜くためいっそうシェイプアップを図らねばならんというあたりに差し掛かっているわけなのだが、経年劣化でリソースどんどん乏しくなっていく状況であれこれ同時にやるのはむずかしい。
  • もちろん「おれと似たようなやつがおれの視界から遠ざかってゆく」だけでなく「おれらの世代が各種のメインターゲットから外れてゆく」という問題もある。ひとを納得させるタイプの目的文に「え?」みたいな異物が混入していることがよくあって、それがつまり「お客じゃなくなった」のシグナルだ。「マジョリティを説得すればマイノリティは(良かれ悪しかれ)そこに引きずられる」というビジョンは確かにあって、そこにどう構えるのがいいか的な話だ。
  • また別の話として、暮らしの中でのためになる話というのは、タイミングをみはからって語られるという要素もある。勉強する気がない状態では知識はあまり吸収されないので、なにかを勉強する気になったり、あるいはその気を起こさないとやばいときに、注意喚起として語られるわけだ。いまのところだいぶネットを能動メディアとして使ってるので、ネットでも多分かなりこういう種類の見落としがあるはずだ。タイミング無関係に有用な情報を浴びるほど摂取しても、片っ端から未消化で受け流すだけになるという。しかもそれを本当に必要になったとき改めて見直しても、既に触れた情報だからなんとなく色褪せて見えてしまうという。
  • 「必要なとき必要とする師が現れる」を逆にいえば、勉強する気になったとき目の前にあるものから、ひとは学ぶという言い方もできる。タイミング無関係に提示された最適の手段よりも、必要になったとき手近にある「必ずしも最適ではないかもしれない方法」を選ぶという。

うだうだ。