ゲームエゴイズム関連
なんとなくあかねへ行ってみるシリーズをやるかなと思ったので行ったのだけど閉まっていた。初歩的な算数だ。店番のひとが来なきゃ開かないわなー。中世的、あるいは OBLIVION 的な世界観のことなど考えつつ、直帰するのは口惜しいので早稲田駅前のモスバーガーで時間を潰していると、同じくあかねへやってきた K さんと合流することに成功。K さんが DIY 精神を発揮してメロンを持ってきていたのだけど、閉まってるんじゃどうしようもないなーというかんじで、しばらくダベり、夜も更けたしせっかくなので高田馬場まで散歩して帰りますかというかんじになったので、店を出てテクテク歩き始め、一応道すがらあかねが閉まってるのを確認しようかなと思ったら、開いていて、E さんが本を読んでた。早く来すぎただけだったか。
ほかにお客もおらず、E さん K さんおれの三人でダラーっと喋る会というかんじに。三人が三人ともインターネッターではあったので(あまり重複しない端くれ同士だったような気がするけど)、主にインターネットの話だったかと思う。ほかには人類は進歩して科学は万能のはずなんだけど生活はたいへんですねえ的な話とかもした。あと最近おれが懸念していることのひとつに、「どうも家庭用前世代機あたりからおれの中に芽生えてきて今世代においては明白に枝葉を伸ばしているゲーオタとしての基本的な態度、それにおれはとりあえず「ゲームエゴイズム」と名前をつけて運用してるかんじなんだけど、これは見方によったらエゴイズムというよりネオリベっぽいんじゃないだろうか、ていうかネオリベっていうとエリートは生きろ豚は死ね的な話になる気がしていて、でももちろんおれはエリートではないわけなので、それでいえばおれがゲームネオリベラリズムを実践すると「豚が死ぬ!」みたいなへんな立場になるはずなんだけど、そうなっていないというか、これはなんだろうなー以前なにかの選挙のときに話題になった「自分たちに有利な政策を行わない党を結果的に支持している都市部無党派サラリーマン」的なメンタリティというやつなんだろうか」みたいな面倒くさいやつがあったので、この機会にこれってどうなんだとテーブルに上げてみたら「いやその態度はべつにネオリベじゃないですよ」と言われた。まあそうか。
しかしなー、なんかこの「理屈としてはエリートは正しいね」的な感覚から、理屈の話になるとエリートを支持することになるんだけど、ノンバーバルにはエリートを支持していない(←それを脳内衆議院も支持するのであれば、エリートになりたいと欲望したり、エリートになるべく努力したりしているはずである)、みたいなチグハグ感に生じた狭間、を自分の内側に仕舞い込んでしまっている状態って、オタクとしての生真面目さと不真面目さの代理冷戦状態というか、互いが互いをスルーするのでモヤモヤするなー。もしかしたら道徳みたいな話に近いのかもしれない。歩み寄りや調整は、常に脳内参議院(自覚している自我)の仕事なので、おれがおれに対してがんばるしかないんだけど。行動とかはする必要ないのだよね。何なのかをハッキリさせるだけでいいんだ。ゲームエゴイズムについては、長らく名前をつけて安心してる段階で保留したままというか、つかみ所が曖昧すぎて一度もまともに整理できてないのだよね。むずかしい。ややこしい。