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Snowdrift - 風の辿りつく場所

  • 例によって旅に出る金も体力もないので夜中の近所やインターネットなどを徘徊しており、場末のチャットルームなど見て「なんかダメなひとたちっていつも同じ話しているなー」とか月並な感想など持った、のだけど、違って、「いつも同じ話してるタイプのダメなひとたちがダメそうに見えやすい」ってことなんだろうなと思いなおした。が、いつも同じ話していてもおもしろいひとってのは居るわけだし、むずかしいな。理由の問題じゃないのに理由付けをしたくなるという男子脳の仕組みがまずつまらんのだというあたりか(←後日にこの「おもしろ / つまらな」でものごとを判定する脳自体のイケてない感っていうか、そういうんでもなくてもうただただ「グハー」みたいな感じについて K さんから指摘を受けたりもしたけど、いやーそれはおれもなんか漠然と感覚しているものはあって、というかべつにそこだけで何かを判断しているというわけでもなく、でも言語化はむずかしいかんじだなと思ったりした)。
  • 仕切りなおして、ラノベとかエロゲーとかへの感想や評価が、自分の境遇や心理状態の変化であからさまに変わっていくひとが居るわけなんだけど(いや変わらないひとは滅多に居ないんだけど)、そういうひとは、自分の状態が変わらないかぎり感想が変わらないということになるわけよな。環境一緒なのに感想が変わるというのは、理解が深まるとか誤読に気付くとか新しい勘繰りポイントを発見するとか、やりこみによって変化する場合で。いまどきのオタは原典には最初の一回以外あまり当たらずに、どちらかといえば以降の仲間内での感想セッションを延々繰り返すという形態になりがちみたいだから、仲間内の視点材料がひととおり出揃ったあとは、同じ作品の感想を言い合っても延々同じ結論がループする道理。
  • もちろんそれがつまらないというのは喋ってる同士でも気付くわけだから、普通は(最近読んだ本とか見たアニメとかの)話題を更新することで、場の鮮度を保つよう工夫する。でもここが結構むずかしくて、「各人それほど親しいわけではなく、知的興味が薄く、共通の話題が少ない」みたいなヌルオタ紳士の社交場とかの場合には、ある程度みんなが知っていて、ある程度は定まった流れに沿ったロールだけでどうにか間が持って、みたいなセッションのラクさを優先していった結果「いつも同じ話をしているチャットルーム」みたいなのが出来上がってしまったりもするのだった。べつにそれをやりたいわけじゃないんだけど諸々勘案した結果めんどいのでこれでいきましょう感。
  • あとは、ひとと感想を言い合ってみることで、作品自体の評価を立体視するのと同時に、「ああ、(このような感想を持つ)自分はこういう状態なんだな」と自己認識して、それを反省材料にする、というのは良いことだと思っているんだけど、感想に映し出された自己像を再吸収せずに作品への評価として投げ捨てるかんじのひとが居て、本人は無自覚なんだろうからいいけど傍目にはキツいとか。どうもじょうずに発散する方法をやりこみすぎて一歩も動けなくなってないかなこのひとみたいな。所詮人間サイバー生命にはなりきれんわけなので、時間がいずれ解決してしまうことではあるんだとしても。
  • エンタテインメント作品は客のいろんな汁を外部に排泄させてナンボ、みたいなところがあるわけなので、それはそれでいいのか。痛すぎる自己像をリアルタイムで認識することは、非常な負荷を伴うものなので、投げ捨て先として作品があるというのは悪いことではないよなとも思えるし。大概は投げ捨てっぱなしだとしても、苦々しくも再吸収できる程度にまで抵抗感が薄まってから、ふと思い出して帰って来るひとだって居るだろう。
  • …というか「自分のなにかに対する感想を後から参照できる」という状態は web 日記以降な気がするから、この形態(定期的に or 検索して自分のログを読み返す前提)自体がごく最近できたもの、ということでもあるよな。それより以前には、文筆で食ってます系のひと以外にはあんま関係のないことだった。おれらがその段階に到達したのは、せいぜいこの 10 年程度の話で。