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最近の読書 - 北方水滸伝再読

北方水滸伝文庫版完結記念として、再読を進めている。ぼちぼち二巻あたり。終盤直後から序盤に立ち戻ると、スケール感やキャラ立てのステップ数などいろいろ違って感慨深い…のかというと、案外そうでもない。描写の密度というか、各個のイベントに掛ける枚数というか、そのようなものはあんまり変わってない。ただ描かれるべきシーン数に対する紙面の量が一定なので、序盤の密度の薄い展開ではフォローされていたであろう細々とした部分を、終盤はぶっちぎって主流がひたすらに展開していくという、その違いだな。

視点の問題については結構意識して読んでいた。北方氏の時代作品は基本的に FPS または TPS 程度の小説といえて、俯瞰や鳥瞰がない(必ず誰かの、あるいはその誰かに非常に近い位置からのカメラで描かれる)。神の視点で大局を描くというのが、歴史モノというジャンルが築き上げてきた王道といえるんだろうと思っているのだけど、北方氏は敢えてその方向には行かず、あくまでも一個の人間の視点での描写にこだわっている。これは、たとえば映画の撮影において、クレーンなどの機械力の導入や、あるいは CG 技術の発達によって獲得されたバーチャルなカメラアングルなどを採用することなく「ごくふつうの人間が、あたりまえにカメラを構えることのできる範囲内でしか撮らないことで、リアリティを手放さない」みたいな技法といえるのかもしれない。ネックとしては、合戦描写などで、ある程度以上のスケールになったあと(なにせ個人視点での視野では鳥瞰より早く認知限界が訪れるので)描写に差がなくなってくるというあたりか。おれが漠然と感じていた「北方三国志の世界では 10 万以上の兵力同士の戦いでは必ず多勢が無勢に負ける」問題とか、あと北方水滸伝読本で指摘されていた「3 万の戦いと 10 万の戦いの差をどう描くか」みたいな問題らへんは、たぶん無縁ではない。でもこの技法は、少人数での冒険行から「数千人規模の合戦を部隊長クラスの視点で描く」あたりまでの幅については、むちゃくちゃいいかんじになるわけよね。

そのほかメモ。

  • ポケモンのリンチュウががんばっているところ。
  • 梁山泊側の致死軍もそうだけど、体制側の諜報部隊が寺を基点にしているのも、北方三国志からの流れよなーと思っている。
  • 改めて読み返すと、晁蓋梁山泊占拠って相当強引だ。王倫を斬る体裁は一応作ったわけだけど、処断後すぐに部下(呉用とか)がテキパキと現状把握に入って、幹部も続々と入山し、おまけに山頂に掲げる旗まで用意していたわけで、はじめから梁山泊を乗っ取る気まんまんでなければそこまでの準備はできんだろという。王倫は決してドサクサに斬られたわけじゃないよという。下のもんは結構首かしげたんじゃなかろうか。
  • 北方料理は料理名を書かない。必ず「〇〇を××したもの」みたいなかんじで、材料と調理法を大雑把に書く。わずかに山椒を加えたりもする。そうやって書かれてあると、なんだかやたらとうまそうに読めるから不思議。