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エントロピー増大 vs マッチング力

たぶん基本的には以前日記した内容(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20060419#p1)の反復なんだけど。のんだくれモードなのでだいぶへんな脱臼が入ってる。

人生のチャンスは一度ではないし、うまく因果に干渉すれば機会を増やすことはできるわけだから、長い目でみて能力のあるひとは能力がないひとよりも、一般的により大きく社会貢献できたりするものだし、その結果として得られる報酬(金とか名誉とか)は大きくなりやすい。これが大勢を占めておいていただきたい傾向(だってめんどくさいことは有能なひとに全部おまかせできたほうが無能なひとにとってもラクだ)。一方でレアな事例として、たとえばあんまりスキルのないひとでも、たまたま就職した零細ベンチャーGoogle 社とかに買収されたり上場に成功したりしてストックオプションでウハウハでリタイアしてセレブとか、そのてのサクセスストーリーの主人公の一人になったりすることはあって、それにはそれで存在価値があると思っている。

理由としては、確率はどうあれ流動性は存在しますよ、という信用材料はあったほうがいいってのが、まあひとつめ。何らかの平等さが示されないとギャンブルは成り立たず、競争社会は弱体化する。あとまあ有能さという性質も変化するのだろうから、これまでに求められていたのと違う軸での有能さを持ったような人材が権限を得ていくための間口は準備されとかないと不健康だろう的なアレとか(無数の劣化コピーの中から時代時代の最適解や、あるいは時代の変化に適応できる新種が生まれてくる云々)、それがまあ二つめ。で、「人生という局地戦」みたいな話として、誰にでも平等にチャンスが与えられて、能力があればそれに相応しい仕事が与えられる的な世界観って、自分には周囲の他人よりも低い能力しかないと自覚しているひとにとってはけっこうきついわけだよね的な筋合い。地形差をうまいこと利用する機会に恵まれれば、どう考えても自分より有能なひとよりも、多くの権益にあずかれる場合だってあるというストーリーは、世の中を「やってられっか」ムードに転落させない大きなブレーキとして働いてるような気がしないでもない。これがみっつめ。

で、これってたぶんインターネットにおける光の神と闇の神永劫の戦い的な中坊世界観に結構かぶさってくる話なんじゃねーかと思ってるわけなんじゃよね。光の神と闇の神のどっちかが圧勝しちゃったら困る。灰色が生きやすい。局地的に一方が勝ってる、みたいな場面が無数に入り乱れてるくらいだと助かる。わからない部分があるというのは、不安でもあるけど同時に希望でもあるからな。実際には真っ黒でしかない領域にだって、もしかしたら光があるのかもしれないと錯覚しつつ死ぬことができるためには、なにもかもが明瞭になっていない必要がある。

なんで(かくも SPAM を忌み嫌う)おれらが(SPAM ですら目を覆いたくなるほどの勢いで)無駄な情報をインターネットに向けて撒き散らしてもいいのかというと、どんだけエントロピーが増大してもきっと Google の野郎が何とかしてくれるだろうからだ。おれら部屋を散らかす係、Google 部屋を片づける係、だんだん投げ込まれるゴミに新種が増えていけば、いずれ部屋はなんにでも使えるようになっていく。カオス vs ロウ。基本的にはカオス側強すぎだろって前提にはなっていて、規格を作って手加減したり、情報の取り出し方の自由度とかで枠を作ってどうにかこうにか拮抗していますよ的なストーリーを作っているかんじ。具体的にいうと、おれとかは日記書いてるぶんには撒き散らしてる側だけど、ネット利用者としてはスープの中から意味を取り出したい側として、立場を変えるわけだ。どっちの側ででも充足したい。だから、灰色最高。もしも「検索エンジンつかえねー」と嘆くなら、まず隗よりはじめよの理念にのっとり、自分が意味のない情報を撒き散らすのをとりやめて(当然「検索エンジンつかえねー」などというノイズはネットに上げずに)、嵐が沈静化するまで待つべきだ。ただし待ってるあいだに寿命が尽きる公算は大。そこに誰かが颯爽と現れて「整理してやる!」と雄叫びを上げたなら、とりあえずのところそいつを支持しつつ、厄介なゴミの撒き散らしを再開してもよかろう。Google の野郎にはがんばってほしいものだとしみじみ思う。

でもそうした Google 社に仮託している衆生の願望とかとは別の話として、「たまたま就職した零細ベンチャーが買収されたり上場に成功したりしてストックオプションでウハウハでリタイアしてセレブ」みたいなエピソードに、具体的に Google 社の名前とかが絡んでくるっていうのは、それが希望のある話でもり、またそれこそが我々の現実そのものを示してもいるわけよね的な見方もできたりする。つまり、検索がマッチングにまで高められるとき、たぶん「こういうやつを求人したい」とか「おれの適職」とか「わたしの恋人」とかで I'm feeling lucky ボタンを押したら一発で本当に世界最高に理想的なそれがみつかるような世界が夢想できるわけなのだ。でもそうはなってないし、たぶんならない(ようは、人類の英知が「たまたまそこに居ること」という重大で奇跡的な偶然を超越するか否か、だ)。しかし、それに近付けるべく努力しているひとは居て、その努力は評価されるべきだろうと思う。仮に本当にそれが実現できるという段階にまで発展することがあるようなら、我々は抵抗すべきなのかもしれないけど。

なんか話ずれたっぽいけど、世の中って実際にはほんとに場所によって見え方がまちまちというか、決定事項に対して偶然の占めてる割合って無茶苦茶でかいわけなんだけど、それっていわば荒涼としすぎているわけなんだよね。もっとなんか手近に確かなものが欲しいと思うはずだ。具体的にいうと努力が報われるとか、才能は評価されるとか、給料は毎月支払われるとか、人生というのは樹のように着々と育っていくとか。偶然以外の要素によって、ひとはコツコツ生きていけるのだという。多くのひとにそのようなストーリーを提供し、無軌道な生き方を選ばせないように、がんばって社会は構築された。でも枠の外側に逸脱したり、あるいは一人立ちしてみたり、またはピラミッドの上澄みにまで昇りつめてしまうと、それまで自分を包んでくれていた皮膜が全然役に立ってくれない、いやになるほどだだっぴろい無味乾燥な博打の世界がひろがってるわけだ。そこには親も居なけりゃ Google も居ない。なんの意味もない荒波がすべてを台無しにしたりする(←意味というのは社会の内側にしかなく、努力というのは「ひまつぶしコンテンツ」の言い換えで、努力に意味を持たそうとする圏外での戦いは、だから内側から称揚されるべきなのだろう的な云々)。それでもそこを見たいと思うのか、あるいは、みたいなところで云々。

…というような話を、夜中の居酒屋でやってた。